カント ボーイ と は。 カントボーイとは?意味や由来は?実在する?イラストや漫画も紹介

カントボーイ(受け募)

カント ボーイ と は

Immanuel Kant イマヌエル・カント ドイツの哲学者。 ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。 カントは生涯のほとんどをこの地で過ごした。 カントの両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育ったという。 1740年、カントは16歳でケーニヒスベルク大学に入学。 当初は神学を志したが、(1642~1727)の活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授の影響のもと、ライプニッツ(1646~1716)やニュートンの自然学を研究した。 1746年、カントが22歳のときに父が死去。 学費が続かなくなったカントは大学を去る。 その後の7年間はカントにとっては苦しい時期で、ケーニヒスベルク郊外で家庭教師をして生計をたてていた。 1755年、31歳のカントは最初の論文で太陽系は星雲から生成されたと論証。 また、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文を提出し、学位を取得。 同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。 1770年、46歳のカントにケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘がある。 カントは引退までこの職にとどまった。 1781年、57歳のカントは『純粋理性批判』を発表。 その難解さと斬新な思想のために同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こり、カントはドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。 続いてカントは1788年に『実践理性批判』、1790年に『判断力批判』を発表。 これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。 カントは哲学的論争の渦中にいたがその学者人生は順調であり、晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。 1804年2月12日、カントは79年の生涯を閉じた。 規則正しい人 カントは規則正しい生活習慣で知られる。 決まった道筋を決まった時間に散歩。 時間が正確なので、人々はカントの姿を見て時計の狂いを直したと言われる。 ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、人々は何かあったのかと騒ぎになった。 その日、カントは(1712~1778)の『エミール』を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのである。 カントは「わたしの誤りをルソーが正してくれた。 目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べている。 森は夜崇高であり、昼美しい。 カントの名言 哲学は学べない。 学べるのは哲学することだけである。 We cannot learn philosophy. We can only learn to philosophize. カントの名言 真面目に恋をする男は、恋人の前では困惑したり拙劣であり、愛嬌もろくにないものである。 カントの名言 内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。 Thoughts without content are empty, intuitions without concepts are blind. カントの名言 すべての知識は経験に基づく。 That all our knowledge begins with experience there can be no doubt. カントの名言 あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。 人間は決して目的のための手段にされてはならない。 カントの名言 徳にとってまず要求されることは、自己自身を支配することである。 カントの名言 人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。 つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。 カントの名言 動物に対して残酷な人は、人間関係においても容赦ない。 我々は動物の扱い方によって、その人の心を判断することができる。 He who is cruel to animals becomes hard also in his dealings with men. We can judge the heart of a man by his treatment of animals. カントの名言 我が行いを見習えと、誰にでも言い得るよう行為せよ。 カントの名言 科学とは体系化された知識で、知恵とは整理された生活である。 Science is organized knowledge. Wisdom is organized life. カントの名言 高慢な人は常に心の底では卑劣である。 カントの名言 互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。 カントの名言 友情関係は同等関係である。 カントの名言 笑いは消化を助ける。 胃散よりはるかに効く。 カントの名言 宗教とは、我々の義務のすべてを神の命令とみなすことである。 Religion is the recognition of all our duties as divine commands. カントの名言 最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。 カントの名言 酒は口を軽快にする。 だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。 こうして酒はひとつの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。 カントの名言 人が財産を使うに際しては、慎重さとためらいとがある。 それは善行ではないし、手腕も能力も必要とはしない。 カントの名言 自由とは、すべての特権を有効に発揮させる特権である。 カントの名言 何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬とで心をみたすものが二つある。 私の上なる星空と私の内なる道徳法則とである。 Two things fill the mind with ever-increasing wonder and awe, the more often and the more intensely the mind of thought is drawn to them: the starry heavens above me and the moral law within me. カントの名言 善行はこれを他人に施すものではない。 これをもって自分自身の義務を済ますのである。 カントの名言 我は孤独である。 我は自由である。 我は我みずからの王である。 カントの名言 人は人によりてのみ人となり得べし、人より教育の結果を取り除けば無とならん。 カントの名言 次ページへ続きます。

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カントの名言・言葉(英語&日本語)

カント ボーイ と は

前批判期 [ ] イマヌエル・カントは1724年、の首都(現ロシア領)で馬具職人の第四子として生まれた。 生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。 両親はのを信仰していた。 1732年、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。 当校では教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、派の哲学が教えられていた。 1740年にに入学する。 入学後次第にの活躍などで発展を遂げつつあったに関心が向かい、哲学教授の影響のもと、やニュートンの自然学を研究した。 1746年、父の死去にともない大学を去る。 学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究ではクヌッツェンにそのを認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。 この時に哲学部にの卒業論文『活力測定考』(1749刊行)を提出している。 卒業後の7年間はカントにとってはくるしい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた。 1755年春、『天界の一般的自然史と理論』を刊行するが、印刷中に出版社が倒産したため、極少数のみが公刊された。 この論文でカントはがから生成されたと主張しており、この学説は1796年にが唱えた理論と似ていたため、19世紀にはと呼ばれた。 4月にはケーニヒスベルク大学哲学部に哲学修士の学位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し、6月12日に修士学位を取得。 9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』で公開討議をおこない擁護に成功。 冬学期より、同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。 カントの哲学者としての道のりは、『純粋理性批判』出版の以前と以後に区分され、前批判期と批判期と区別される。 1756年、恩師クヌッツェンの逝去(1751)により欠員が出た・教授職授の地位を得るため、『自然論』を執筆。 当時、正教授就任のためには少なくとも3つのラテン語論文を執筆し、公開討論審査で擁護しなければならなかった。 4月10日に公開討論会がおこなわれ、擁護に成功する。 しかし、プロイセン政府がとのを開始し、財政的理由のため欠員補充をしない方針を打ち出したため、教授就任の話は白紙となった。 1764年、『美と崇高との感情性に関する観察』出版。 直後の自家用本の書き込みによれば、カントは「何も知らない下層民を軽蔑していた」が、「がその私を正してくれた」。 「私は人間性を敬うことを学ぶ」とある。 1765年、「1765-66年冬学期講義計画公告」のなかではじめて理性批判のアイデアが公けにされる。 また同年より始まったとの書簡の中では、自然哲学との形而上学的原理の構想が開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法を目標としている」と述べられている。 1766年には、批判期の到来を予感させる『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版。 同書では、の・者が起こしてみせたと主張する超常現象を紹介すると同時に、現在の形而上学の粗野な方法論と来るべき展望について語られている。 1766年にケーニヒスベルク王立図書館副司書官に就任し、また博物美術標本室監督も兼任していたカントだったが、1769年に大学の論理学・形而上学教授に招聘されるが固辞、また1770年にはから哲学教授職への就任を打診されているが、これも辞退、最終的に1770年3月、46歳の時に、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授に任命された。 同年8月11日には正教授就任論文『と可想界の形式と原理』が公開審査にかけられ、遅くとも9月には出版。 同書は「この後十年あまりにわたる沈黙と模索の期間をへて公にされることになる『』に直接間接につながってゆく重要な構想のめばえを多く含むものであり、これを契機に〔…〕人間理性の限界の学としての形而上学という構想は、たんなる漠然とした模索の段階を脱して、着実な実現の緒についたといっても過言ではない」。 後にこの時代を振り返ったカントは、1769年に「大きな光」が与えられたと述べており 、それは一般的に空間と時間の観念性の発見であると考えられている。 『純粋理性批判』が出版されるまでの十年近い間は、先述のように「沈黙と模索の期間」であった。 しかしその間、カントが机の前で沈思黙考し続けたと考えるわけにはいかない。 むしろ大学業務は多忙になっていったと言えるだろう。 1772年からは講義が開講され、1776年には哲学部長に就任、同年夏学期の授業時間は週16時間にのぼっている。 1779年冬学期には二度目の学部長就任、1780年にはケーニヒスベルク大学評議会会員となっている。 そして1781年、カントの主著『純粋理性批判』がのハルトクノッホ書店より出版されることになった(以下『純理』と略記)。 批判期 [ ] 今でこそ『純理』はの基礎と目されることも多いが、この書物がすぐに哲学界を驚愕させ、思考の地平を一変させたと考えることはできない。 『純理』はすぐに見本市に出品されるが、反響はほとんどなく、売上も芳しくなかった。 同時代の哲学者やにはもっぱら不評だったと言われている。 1782年には雑誌『』に匿名書評が出るが、そこではカント思想がのと同一視されてしまっていた。 そのためカントは翌年1783年に出版した『プロレゴーメナ』や『純理』第2版「観念論反駁」の中で、こうした嫌疑をはらさざるをえなかった。 同時代人の第一印象では、カントはバークリやと同様の者とみなされたのである。 批判哲学のプロジェクトは『純理』以降、自然学・実践哲学(道徳論・)・・・宗教へと多岐にわたって展開される。 とりわけ『純理』と『』(1788)、『』(1790)を合わせた三つの書物は、「三批判書」と総称される慣例となっている。 自然学分野は『自然科学の形而上学的原理』(1786)や『判断力批判』第二部の中で展開され、実践哲学は『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)や『実践理性批判』(1788)、『人倫の形而上学』(1797)が主著となっている。 美学については、同時代のの影響を受けつつ大きく議論を展開させた『判断力批判』第一部が読まれなければならない。 批判期以降、カントは様々な論争に巻き込まれ、また自ら論争に介入していった。 特に論争の場として重要だったのは、1783年にとによって創刊された雑誌『』である。 カントは十数本の論文を『ベルリン月報』に掲載しているが、そのなかには「敢えて賢かれ、自らの悟性を用いる勇気を持て」 という言葉が有名な小論「とはなにか」(1784)も含まれている。 この問いかけもまた、論争の産物だと言ってよい。 同時期のプロイセンではのもと、「啓蒙」の有用性とその限界が議論されていたからである。 また、1785年にはの『人類史の哲学の理念』(1784-91)をめぐって、カントはヘルダーと論争を繰り広げている。 他にも、主義をめぐってや、メンデルスゾーンらが繰り広げたに加わってもいる(「思考の方向を定めるとはどういうことか」(1786))。 1786年、カントは3月にケーニヒスベルク大学総長に就任した。 同年8月にはフリードリヒ大王が崩御し、代わってが即位する。 前代が啓蒙君主と呼ばれるほどフランス啓蒙哲学に通じており、にやを呼び寄せたほどだったのに対し、この新しい君主は守旧的であり、にも傾倒していた。 1788年には宗教・文教行政を担っていた法務大臣が宗教を発布し、1792年にはカントが『ベルリン月報』に発表した「人間の本性における根源悪について」が検閲に引っかかってしまった。 この論文は検閲を通過したものの、次の「人間の支配をめぐる善現理と悪原理の戦いについて」は出版不許可の決定を受けた。 両論文は1793年には『単なる理性の限界内における宗教』として発表されるが、1794年にはカントの宗教論が有害だという勅令が出され、カントは宗教・神学に関する講述を禁じられてしまう。 カントはこうした検閲や勅令に粛々と従っていたが、他方で1789年に勃発したについては、それが独裁を経て過激化していった時代にもなおそれを称賛していた。 国際政治情勢の激動の時代、カントはそれに呼応するかのように、「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たないという俗言について」(1793)や『』(1795)、『』「第一部・法論の形而上学的定礎」などで共和制と国際連合について論じた。 カントは晩年、身体衰弱に加えて思考力の衰えを感じつつも、自然科学の形而上学的原理から物理学への移行という課題に取り組みつづけた。 この課題は完成されなかったが、一連の草稿は『オプス・ポストゥムム』として知られている。 今で言う老年性認知症が進行する中、1804年2月12日にカントは逝去した。 最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。 、大学墓地に埋葬される。 カントは簡素な葬儀を望んだが、葬儀は二週間以上にわたって続き、多くの参列者が死を悼んだ。 思想 [ ] のにあるカント像 概説 [ ] 一般にカントの思想はその3つの批判の書(『』『』『』)にちなんで 批判哲学と呼ばれる。 ただ、カントが批判(Kritik)ということで企図していたのは、真の哲学のための準備・予備学であった。 批判哲学が完成し、人間の理性能力の限界が確定された上ではじめて、真の形而上学としての哲学が築かれるべきだからである。 カントの思想は前批判期と批判期以後に大別される。 前者は、『純理』刊行(1781)前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と可想界の形式と原理』(1770)までを指す場合が多い(ただし、カントのの着想の時期がいつだったのかについては、論争がある )。 後者は、『純理』刊行以降、三批判書を含む著作以降を指す。 前批判期の仕事 [ ] 初期のカントの関心はにむかった。 特にの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの()やを受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。 自然哲学においてはことにによる成立について関心を示した()。 そこではが多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると正しく推論している。 また1755年のから受けた衝撃で、地震の発生メカニズムに関する論文を書いている。 そのメカニズム自体はその後誤りとされたが、地震を超自然によるものではなく自然によるものと仮定して考える先駆的な試みと考えられている。 一方で、カントはを受容し、ことにのに強い衝撃を受けた。 カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだ=学派のの影響を脱し、それを経験にもとづかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。 自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。 また、カントはの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。 これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。 こうして、知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きをあつかう『可感界と可想界の形式と原理』(1770)が書かれる。 この時点で後年の『純粋理性批判』(1781)の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。 批判哲学 [ ] 「批判 Kritik」とは、理性・悟性・感性・判断力からなる人間の認識能力の限界と能力を確定し、それぞれに相応しい役割を規定する企てである(「批判」という意味の英単語"critic"の由来となったギリシア語の"krino"は、良い物を選別(=吟味)するという意味)。 『純理』では人間の認識が必ず感性と悟性によって媒介されており、経験的認識において理性は直接的に作用しないという、理性の限界が確定される一方、『実践理性批判』では、経験的認識において能力が限界づけられた当の理性が人間の道徳性の根幹をなす能力を持ち、そこにこそ理性の可能性が秘められているということが明らかにされる。 また、『判断力批判』では経験(現象界)と理念(叡智界)を媒介する能力として判断力が研究され、第一部では美学目的論が、第二部では自然目的論が展開される。 認識論 [ ] カントによれば、人間の認識能力にはとの二種の認識形式がにそなわっている。 感性には純粋であるとが、には性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわちとも称する)が含まれる。 純粋悟性概念は時間限定たる図式 schema によってのみ感性と関係する。 意識はその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事をする。 この認識が物のである。 他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが、少なくとも課題として必要とされる概念とされる。 理性推理による理念はいわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。 あるいはがその代表例であり、これをカントは Ding an sich と呼ぶ。 いわゆるにおいては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。 これに対し、反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。 このような対立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。 理念は与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停滞することは許さない規則である(『』)。 なお、『』によれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも、物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。 また、経験に先行しこれを可能にする超越論的 transzendental という概念はかりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的 transzendent と呼ばれ、内在的 immanent すなわち経験内に限られた使用から区別される。 倫理学 [ ] 理性概念が(直観を欠くために)理論的には認識されえず、単に思惟の対象にすぎないことが『純粋理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『』において考察されている。 『実践理性批判』は、純粋実践理性が存在すること、つまり純粋理性がそれだけで実践的であること、すなわち純粋理性が他のいかなる規定根拠からも独立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。 カント道徳論の基礎であるこの書において、人間は界に属するだけでなく界にも属するとしても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。 カントは、その物自体の叡智的秩序を支配する法則を、としての人間が従うべき道徳法則として提出する。 」というとして定式化される。 カントは純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。 道徳法則に人間が従うことができるということが、叡智界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。 また、神・の理念は、有徳さに比例した幸福(すなわち)の実現の条件として要請される。 美学・目的論 [ ] 最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。 これが『判断力批判』である。 この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。 また以降、『』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。 批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・への関心を増した。 とくににカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。 後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。 その道徳論は倫理として現在の二大の一方をなしている。 歴史哲学 [ ] カントは人類の歴史を、人間が己の自然的素質を実現するプロセスとして捉える。 人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。 法哲学・政治哲学 [ ] カントの・の最も体系的な著作は『』「第一部・法論の形而上学的定礎」(1797)である。 『人倫の形而上学』においては人倫の領域中、法と徳が区別され、法は法則と外的行為の一致として定義され、内面の動機と法則との一致は度外視される。 「」はいわゆる学の系譜に連なるものであり、自然状態における私法と市民状態における公法の二部門から成り立っている。 自然法は理性によってア・プリオリに認識されるものであり、自然法が前提とされなければの権威は打ち立てられない。 「法の普遍的原理」は「どのような行為も、その行為が、もしくはその行為の格率にしたがった各人の選択意志の自由が、万人の自由と普遍的法則にしたがって両立することができるならば、正しい」というものである。 この原理にしたがって、各人には生得的な権利として、他者の選択意志の強要からの独立という意味での自由が認められる。 生得的自由権が内的権利(内的な私のもの)と呼ばれるのに対し、取得を通じて獲得される権利が外的権利(外的な私のもの)と呼ばれ、「法論」の第一部「私法」では物権・債権・物権的債権という権利が論じられている。 カントの議論において特徴的なのは、や、らと違って、自然状態を経験的な人間本性の観察から導かず、むしろア・プリオリな理念として考察したところにある。 単に国家が存在しない状態における人間相互の関係性を考察し、そこにおける法のあり方を捉えたのだ。 その結果、自然状態はア・プリオリに非・法的な状態として記述されることになり、そこからの脱出が義務化される。 「経験から我々は、人間の暴力という格率を知り、そして外的な権力を持つ立法が現れる前には互いに争い合うものだという人間の悪性を知るが、しかしそうした経験があるから、それゆえそうした事実があるから、公的な法則による強制が必然的になるというわけではない。 むしろお望み通り人間が善なるもので、法を愛するものだと考えるとしても、次のことはこうした(非・法的な)状態という理性理念の中にア・プリオリに含まれている。 すなわち、公的な法則が存在する状態に達する前には、結合した人間や諸国民や諸国家は、決して互いの暴力から安全ではありえず、しかもこれは、自分にとって正しくまた良いと思われることをし、他人の意見に左右されないという各人固有の権利から生じる、ということである」。 自然状態の脱出後に設立されるべき国家は、まさに自然状態のこうした不正を解消するような国家でなければならない。 カントはそうした国家がどのようなものであるかを、一切の経験に依存せずに論じている。 カントの国家論はこうして理性からア・プリオリに導かれた「理念の国家(Staat in der Idee)」、言い換えれば国家の「規範(Richtschnur, norma)」の役割を果たす。 政体論としては、市民が立法権を持ち、立法権・執行権・裁判権が分離した「共和制 Republik」が規範的に優位なものとして展開される。 このような理念の国家が可能であるとすれば、それにもやはり起源を考えることができる。 カントのにおいては、現実の国家の設立の起源ではなく、純粋に仮説的に考えられた理性起源が問題となっている。 国内の法規範を司る国法に対し、カントはさらに国家間を司る、国家とそれに属さない人々の関係を司るを「法論」の中で論じている。 人々の間の自然状態が国家設立によって解消されるのと同様に、国家間の自然状態も解消されるべき課題だが、カントはに必ずしも従っていない。 すなわち、諸国家間において主権を持った世界大の一つの国家を設立することは規範的に否定される。 むしろカントは自由な国家の連合を推奨し 、それが国際連盟結成のための思想的基盤を用意したとしばしば考えられている。 『』では、当時の中国や江戸日本の鎖国政策が、世界市民法の観点から評価されている。 宗教哲学 [ ] カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。 神は、幸福と徳の一致である「」を可能にするために要請される。 この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。 反ユダヤ主義 [ ] カントはなどと同様にの思想を持っていたことでも知られている。 カントは『たんなる理性の限界内の宗教について』において、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがに選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」と、のについて批判している。 また晩年の「実用的見地における人間学」においては、ユダヤ人は「追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」として、ユダヤ人は保護を受けている国に対してその国の国民を欺いたり、また自分たち同士をさえ欺いて利益を得ていると非難している。 またカントは『諸学部の争い』で、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教とキリスト教の区別を消滅させることができて、ユダヤ教はできると述べている。 カントはなどユダヤ人哲学者と交流していたが、このようにユダヤ教とユダヤ人を否定的に理解していた。 はカントの『人間学』の一節を「世界文学のなかでもっとも反ユダヤ的なテクスト」であると批判している。 レオン・ポリアコフはカントは的というより、であったと論じている。 人間学 [ ] カントは、哲学には、「わたしは何を知ることができるのだろうか」(Was kann ich wissen?)、「わたしは何をすべきなのであろうか」(Was soll ich tun?)、「わたしは何を望むのがよいのだろうか」(Was darf ich hoffen?)、「人間とは何だろうか」(Was ist der Mensch?)という4つの問題に対応する4つの分野があるとした上で、最後の問題について研究する学を「」であるとした。 は、カント哲学の全体を人間学の大系であるとしている。 地理学 [ ] カントはケーニヒスベルク大学で1765年からの講義を担当し、に科学的地位を与えた。 カントは地理学との違いを場所的記述を行うのが地理学で、時間的記述を行うのが歴史学であるとした。 この見解は後世の地理学者のとなった。 また、「道徳地理学」(Die moralische Geographie)の講義では、日本とで親殺しをした子に対する刑罰が異なる、具体的には日本では子の家族もろとも極刑に処されるが、ラップランドでは働けなくなった父を殺すことは母が子を扶養するならば許される、という事例を用いて、地理的環境が異なれば倫理や道徳も異なると説いた。 人種論 [ ] カントは現代の国際的な自由主義の発展に多大な貢献をしたことでも知られているが、他方で近年は、カントの理論(人種学)にはなどの問題点を指摘されており、の父祖の一人とみなされている。 カントは1764年の『美と崇高との感情性に関する観察』において、アフリカの黒人と白人種との差異は本質的な差異であると論じている。 アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。 ヒューム氏は、どの人に対しても、黒人が才能を示したただ一つの実例でも述べてほしいと求め、彼らの土地からよそへ連れて行かれた十万の黒人の中で、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、学芸や、その他なんらかの称賛すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの一人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才能によって声望を獲得する人々が絶えず見られると主張している。 それほどこの二つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 — イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』第4章 ここでカントが引用したは、奴隷制に反対していた一方で、黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せないと述べていた。 このほかに、カントはについては、東洋で最も高貴で「アジアのスペイン人」といってよいが、冒険的なものへ退化した感情を持っているとしたり、は典雅で繊細な趣味を持っており、「アジアのフランス人」といってよいと述べている。 は極度の強情にまで退化しており、沈着、勇敢、死の軽視といった点で「アジアのイギリス人」といってよいと述べている。 は宗教において異様な趣味を持っており、は太古の無知の時代以来の風習を保持しており、畏怖すべき異様さを持つとする。 続けてカントは東洋人は人倫的な美についての観念を持たないと論じる。 ラバ師の報告によれば、黒人の大工に、彼の妻女たちに対する高慢な仕打ちを非難したとき、彼は次のように答えた。 「あなたたち、白人はほんとに馬鹿だ。 というのは、最初あなたたちは女たちに多くのことを許容し、その後、彼女たちがあなたたちの頭を狂乱させたときに不平をいうのだから。 」これには、おそらく考慮するに値するものがあるかのようであるが、要するにこいつは頭の先から足の先まで黒かったのであり、それは彼の言ったことが愚かであった明らかな証明となる。 — イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』第4章 カントはこのように人種を論じた上で、現在のヨーロッパ人によって「との正しい」が花開いたのであり、教育によって古い妄想から解放され、すべてのの人倫的感情が高まることを望んでいると論じた。 カントはその後も人種について研究を続けて、1777年の「様々な人種について」では人間は共通の祖先を持つとした。 ほかに1785年の「人種の概念の規定」など様々な論文を書いている。 他方で、カントは以下に引用するように1756年から1796年まで続けられたケーニヒスベルク大学での講義『自然地理学』において、明確に白色人種の卓越性を論じ続けた。 暑い国々の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、温帯の人間のような完全性にまで到達することはない。 人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。 すでに黄色のインド人であっても、才能はもっと劣っている。 ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である。 — イマヌエル・カント『自然地理学』第2部第1編第4節 「その他の生得的な特性に即した地球全体の人間に関する考察」 ここでは、最劣等にアメリカ原住民を置いており、必ずしも黒人だけを最劣等に置いていたわけではないが、白人種の優劣については生涯変化することはなかった。 この他にもカントは、ニグロは生まれた時は白く、との周囲だけが黒いが、やによって白くなるし、熱帯地方に住むヨーロッパ人(白人)は多くの世代を重ねてもニグロにはならないと述べたり 、肌の黒さの原因はその地域の熱暑であるとしている。 このようにカントは多くの著作で白人優位主義を述べており、そこにイデオロギー的な意図があったわけではないにせよ、カントは明確に白人優位主義を述べるであり、的な限界があると指摘されている。 カントの人種学の研究は、出身でのや、セレクベルハン(Tsenay Serequeberhan 、Mark Larrimore、Robert Bernasconi、出身の政治哲学者等によって発展してきた。 エゼは、カントの政治的人間学は、ヨーロッパ的自己を中心にして、他の非ヨーロッパ人種の人間性を否定するという特殊性を前提として成立する人間の植民地化であり、普遍主義的な 疑似人間 を抽象化させることによって成り立っていると主張し、カント研究界をドラマティックに切断した。 セレクベルハンは、カントは、近代ヨーロッパが他の人間よりも優越しているという理念またはウソを作り上げた最も重要な哲学者の一人であるとした。 他方で、カントの人種論に偏見はなく、到る所で白人の横暴をつき、黒人の肩を持っているという指摘 や、カントは人種の文化的生活を文化的な進歩の議論 において捉えており、人種の差異は必ずしも重要な意味を帯びるものではないと指摘されてもいる。 クラインゲルドは1790年代にカントは心をいれかえて、人種理論との矛盾が完全に解消されたわけではないが、人種間のヒエラルキーについての観念は後退したとしている。 カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な人物であった。 身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。 正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。 身体の割に頭は若干大きめだった。 体躯は貧弱であったものの、有名な規則正しい生活習慣など健康管理に心を配り、顔色も良く、最晩年まで大きな病気とは無縁であった。 青少年教育批判 [ ] カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験した。 しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記した。 啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言える。 独身主義者カント [ ] カントは生涯独身を通した。 彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身であったが、彼の場合は、仕事に忙殺され恋愛の暇がなかったと言われる。 カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。 真相は不明で、カントもまた、ニュートンのように仕事に忙殺されていた可能性も否めない。 教育者カント [ ] カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となったが、その授業の様子を、当時の弟子のひとりであるヘルダーが伝えている。 ヘルダーによれば、カントの講義は精彩に富み魅力あるものであった。 カントはいきいきと語る熱心な教師であった。 カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされる。 規則正しい人カント [ ] カントは規則正しい生活習慣で知られた。 早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。 帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。 あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見ての狂いを直したと言われる。 これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。 ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。 実はその日、カントはの「」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。 カントはルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への『覚書』にて「わたしの誤りをが正してくれた。 目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べている。 趣味人カントの食卓 [ ] 規則正しい散歩の後、カントは、夕方から友人を集めて会食した。 カントの論敵の一人であるは、同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となった。 カントは、ウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆した。 しかし、客が哲学の話題に触れると、露骨に嫌な顔をしたと言われる。 近くにいた人物の回想で、ヤハマン『カントの生涯』 に、多くの逸話がある。 著作・論文・講義 [ ] カントの著作の全集(クリティカル・エディション)として現在最も一般的なものは、王立プロイセン学術アカデミー編集版(Kant's gesammelte Schriften. Reimer und de Gruyter, 1910-)である。 同版をもとにボン大学が電子版を公開しており、ウェブ上で閲覧できる()。 邦訳版全集としては、理想社版(1965-)と岩波書店版(1999-)がある。 1754年06月 - 「地球が自転作用によって受けた変化の研究」• 1754年09月 - 「地球は老化するか、物理学的考察」Die Frage, ob die Erde veralte, physikalisch erwogen• 1755年03月 - 『天界の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels• 1755年04月 - 学位論文「火に関する若干の考察の略述」• 1755年09月 - 就職論文「形而上学的認識の第一原理の新しい解釈」Principiorum primorum cognitionis metaphysicae nova dilucidatio• 1756年 - 「地震におけるきわめて注目すべき出来事について」• 1756年 - 「続地震論」• 1756年04月 - 「物理的単子論」Metaphysicae cum geometria iunctae usus in philosohia naturali, cuius specimen I. continet monadologiam physicam• 1756年04月 - 「風の理論の説明のための新たな註解」• 1758年04月 - 「運動および静止の新説」• 1758年10月 - 「オプティミズム試論」• 1762年 - 「三段論法の四つの格」• 1768年 - 「空間における方位の区別の第一根拠」Von dem ersten Grunde des Unterschiedes der Gegenden im Raum• 1770年 - 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis• 1781年 - 『』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft• 1785年 - 『』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten• 1786年 - 『自然科学の形而上学的原理』• 1787年 - 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft• 1788年 - 『』 Kritik der praktischen Vernunft• 1790年 - 『』 Kritik der Urteilskraft• 1791年09月 - 『弁神論の哲学的試みの失敗について』• 1792年04月 - 「根本悪について」• 1793年09月 - 「理論と実践に関する俗言について」• 1794年05月 - 「天候に及ぼす月の影響」• 1794年06月 - 「万物の終焉」Das Ende aller Dinge• 1795年 - 『』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf• 1797年 - 『』 Die Metaphysik der Sitten• 1798年 - 『実用的見地における人間学』• 1800年9月 - 『論理学』 Logik• 1802年 - 『自然地理学』• 1803年 - 『教育学』• 1804年 - 「オプス・ポストムム」 遺稿 参考文献 [ ] 和書 [ ]• イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』カント全集2、久保光志訳、岩波書店、2000年。 イマヌエル・カント『自然地理学』カント全集16、宮島光志訳、岩波書店、2001年。 青野壽郎『大学教養-人文地理学』森北出版、1970年、再訂版、297頁。 加藤尚武編『哲学の歴史 7 理性の劇場-18-19世紀カントとドイツ観念論』中央公論新社、2007年。 加藤将之「」『哲学』第1957巻第7号、日本哲学会、1957年、 23-31頁、 :、 、。 下村由一「」『駒澤大学外国語部紀要』第1号、駒澤大学、1972年、 98-117頁、 、。 広瀬悠三「」『臨床教育人間学』第10巻、京都大学大学院教育学研究科、2010年、 63-71頁、。 レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第III巻 ヴォルテールからヴァーグナーまで』菅野賢治、筑摩書房、2005年11月25日。 洋書 [ ]• Robert Bernasconi 2001. In Robert Bernasconi. Race. Blackwell Publishing, Oxford. 11-36• Robert Bernasconi 2006. In Sara Figal and Mark J. Larrimore. The German Invention of Race. State University of New York Press. 73-90• Emmanuel Chukwudi Eze 1997. In E. Eze. Post-Colonial Africa. Blackwell Publishing. 103-40• Aaron Garrett 2000. Hume Studies The Hume Society 26: 171-177. Aaron Garrett 2004. Eighteenth-Century Thought University of Pennsylvania Press 2. Todd Hedrick 2008. Journal of the History of Philosophy The Johns Hopkins University Press 46 2 : 245-268. Pauline Kleningeld 2007. Philosophical Quarterly Blackwell Publishing 57 229 : 573-592. Jon M. Mikkelsen, ed 2013-8. Kant and the Concept of Race: Late Eighteenth-Century Writings. State University of New York Press. 1- 20. Charles W. Mills 2005. In Andrew Valls. Race and Racism in Modern Philosophy. Cornell University Press. 169-193• Charles W. Charles W. Mills 2016-7. Herman Cappelen,Tamar Szabo Gendler,John Hawthorn. The Oxford Handbook of Philosophical Methodology. 709-732. Tsenay Serequeberhan 1996. The Philosophical Forum 27 4. Andrew Vallis 2005-9. In Andrew Vallis. Race and Racism in Modern Philosophy. Cornell University Press. 127- 149. Julie K. Ward and Tommy Lott, ed 2002. Philosophers on Race : Critical Essays. Oxford: Blackwell Publishing• Julie K. Ward 2016年9月13日. The Critique.. 2017年9月2日閲覧。 文献案内 [ ] 入門書 [ ]• 『カント入門』筑摩書房〈ちくま新書〉、1995年。 石川文康『カントはこう考えた-人はなぜ「なぜ」と問うのか』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2009年。 ・・『カント哲学案内-カント全集別巻』岩波書店、2006年。 坂部恵『カント』講談社〈講談社学術文庫〉、2001年。 『カントの読み方』筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年。 牧野英二編『新・カント読本』法政大学出版局、2018年。 法哲学・政治哲学 [ ]• 網谷壮介『カント政治哲学入門:政治における理念とは何か』白澤社、2018年。 木原淳『境界と自由 : カント理性法論における主権の成立と政治的なるもの』成文堂、2012年。 金慧『カントの政治哲学:自律・言論・移行』勁草書房、2017年。 ケアスティング、ヴォルフガング、舟場保之・寺田俊郎監訳『自由の秩序:カントの法および国家の哲学』ミネルヴァ書房、2013年。 ヘッフェ、オトフリート、北尾宏之・平石隆敏・望月俊孝訳『政治的正義:法と国家に関する批判哲学の基礎づけ』法政大学出版局、1994年。 マウス、インゲボルク、浜田義文・牧野英二監訳『啓蒙の民主制理論:カントとのつながりで』法政大学出版局、1999年。 三島淑臣『理性法思想の成立:カント法哲学とその周辺』成文堂、1998年。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 以下は、Manfred Kuehn, Kant. A Biography. Cambridge: Cambridge University Press, 2001. また菅沢龍文・小谷英生「カント年譜:物語風に」牧野英二編『新・カント読本』法政大学出版局、2018年、348-68頁を参考にしている(というかすべきである)。 とりわけ「カント年譜」は簡便である。 以下では煩雑を避けるため、引用以外は注として記さない。 アカデミー版全集20:44。 アカデミー版全集10:56。 坂部恵『カント』講談社学術文庫、2001年、152-3頁。 アカデミー版全集18:69。 この書評はの元原稿にが手を加えたものであり、「ゲッティンゲン書評」や「ガルヴェ・フェーダー書評」と呼ばれ、『純理』の受容過程を見るために重要である。 アカデミー版全集8:35。 「啓蒙とはなにか」という問いに対しては、メンデルスゾーンを含め、様々な著述家が解答を与えようとしていた。 そうした議論のきっかけの一つとなったのは、フリードリヒ大王がベルリン王立アカデミーに出させたという懸賞課題であった。 Hans Adler Hg. Stuttgart: Frommann-Holzboog, 2007. 例えば『理性の不安:カント哲学の生成と構造』(、1976)は、『視霊者の夢』(1766)にその一契機を見る。 アカデミー版全集6:224。 アカデミー版全集6:230。 アカデミー版全集6:237。 アカデミー版全集6:312。 アカデミー版全集6:313。 アカデミー版全集6:315。 アカデミー版全集6:330、また『永遠平和のために』「第二確定条項」を参照。 「だから中国と日本が、そのような(極悪非道な)客人たちを試した上で、以下の措置を取ったことは賢明であった。 すなわち中国は来航は許したが入国は許さなかった、日本はそれどころか来航さえもオランダ人というただ一つのヨーロッパ民族にしか許容しなかったし、しかも日本人はそのオランダ人さえ捕虜のように扱い、自国民との共同関係から排除しているのである」 平子友長「カント『永遠平和のために』のアクチュアリティ : ヨーロッパ帝国主義批判の書として」『唯物論 : 東京唯物論研究会会報』第79号、東京唯物論研究会、2005年、 27-42頁、。 248-251. , p. 111-112. 249. カント「たんなる理性の限界内の宗教について」カント全集10巻、岩波書店、p168-169. カント「実用的見地における人類学」カント全集15、p138-139. カントはユダヤ人を「パレスティナ人」と表記している。 249-250. カント全集18巻、岩波書店、p. 73-74. 青野(1970):246ページ• 716. 久保光志訳「美と崇高の感情にかんする観察」第4章、,p. 378-380。 , pp. 91-92. , pp. 130-132. , pp. 171-177. , pp. 132-139. 381-382. 383. Von den verschiedenen Racen der Menschen 1777(福田喜一郎訳「様々な人種について」『カント全集 第3巻』岩波書店 2001年• Bestimmung des Begriffs einer Menschenrace 1785. (望月俊孝訳「人種概念の規定」『カント全集 14』岩波書店 2000年)• 227. 「人間の黒い色に関するいくつかの注目すべき点」 自然地理学 第2部第1編第2節 、、p. 223. 「この色の原因についての考察」 自然地理学第2部第1編第3節 、、p. 225. , p. 263. 4-5. , p. , p. , p. アカデミー版全集20:44。 ヤハマン『カントの生涯』(木場深定訳、、1947年/、1953年/(改版)、1978年) 関連項目 [ ] ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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