桜庭 和志。 桜庭和志の現在がヤバい!息子と嫁は…(笑)

桜庭和志はパンチドランカーで引退?青木真也との試合でさらに重症だった!

桜庭 和志

桜庭和志は引退するの? かつてはIQレスラーと言われ、400戦無敗のヒクソングレイシーにも一目置かれている強い桜庭和志の姿はそこにはありませんでした。 桜庭和志本人も全盛期の力は出せないということは知っていましたし、今現在現役最強の青木真也には勝てないことはわかっていたはずです。 それでも試合を引き受けたのはそれが桜庭和志の仕事であり、生きがいだからなんですよね。 私はRIZINで桜庭和志VS青木真也の試合を見ていて、世代交代というものをハッキリ感じました。 それは桜庭和志本人が1番感じていることですし、このような結果になることは目に見えていたのでしょう。 青木真也とは? 青木真也選手は格闘技大好きオタクです。 2010年の大みそかでのアニメオタクこと自演乙戦で無様な負け方をしたとネットでかなりの批判を浴びましたが、彼はそんなことは一ミリも気にしていないでしょう。 そこから青木真也選手の格闘技人生は一気に変わることになります。 寝技が得意とする青木選手はブラジリアン柔道で黒帯を取得し、最強の寝業師と呼ばれるようになりました。 そんな中での自演乙選手の膝で完全に戦意喪失となり、おまけに脱糞説まで流れる始末です……。 桜庭和志はパンチドランカー? パンチドランカーとは簡単にいいますと、殴られすぎて頭痛やバランス感覚がなくなってしまうもの。 いわゆるお酒を飲んで酔っ払っている状態が、常にあるという感じですね。 これはボクサーや格闘家の宿命ともいわれています。 桜庭和志は長年の試合で殴られすぎて、パンチドランカーになってしまったとの噂が絶えません。 そもそもパンチドランカーになってしまったら試合に出るのは難しいでしょう。 桜庭和は引退するのか? 桜庭和志は格闘技をこよなく愛していますし、家族も愛しています。 家族を養うためには格闘技をしなければなりません。 今回のRIZINの試合も半分は仕事でもう半分はお金のためだったのでしょう。 しかもメーン試合なのですぐに試合を終わらすわけにはいきません。 かといって、青木真也選手も尊敬する桜庭選手に対して手を抜くとようなことをしたくはなかったはず。 思いっきり叩き潰すことが最高のリスペクト手段だったのが何とも切ないですよね。 そういう感じで桜庭和志選手はまだまだ納得していないと思いますし、まだ引退はしないと思いますが年齢的な部分を考えて厳しいのは隠せないです。 桜庭和志本人としてはリングの上で天寿を全うするのが、本望と言っているくらいなのでまだまだ引退はないでしょうね。 全てはRIZINの視聴率のため? 青木選手本人も試合後に語っている通り、途中でなぜ止めなかったんだと疑問視していますし、運営側は視聴率を取るために圧力をかけられていたかもしれませんね。 もちろんレフェリーもそれを感じとっていたかもしれません。 真相はわかりませんが、私はRIZINの試合を見ていてそう感じました。 そして、何よりも桜庭和志はいろいろな意味でプロだと痛感しました。 ヒール役を買っていた青木真也選手もさすがにヒール役になれなかったですね。 もともとヒール役をする人はプライベートではめちゃくちゃ優しいとかいいますから。 蝶野正洋さんがいい例です。 桜庭和志のパンチドランカーで引退すれば格闘技の時代は終わる? それにしても久しぶりの格闘技は不発に終わったのが否めません。 チケットも完売どころかかなり余っているみたいです。 過去のように格闘技が大人気だった時代はまだまだ先になるのかもしれません。 これからも桜庭和志選手や青木真也選手以外の格闘家たちも頑張って、格闘技界を大いに盛り上げていってほしいと思う今日この頃です。 そして、高田延彦さんには 「格闘技界のニュースター、でてこいやっ!」と叫び続けてほしいですね。

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桜庭和志

桜庭 和志

90年代後半から00年代前半に掛け、桜庭和志は総合格闘技ブームを牽引した。 IQレスラーやグレイシー・ハンターと呼ばれ、プロレス・ファンの思いを実現したと言える。 一体、桜庭和志とはどんなレスラーであったのか? プロレスラーからPRIDE参戦へ 桜庭和志は秋田県に生まれ、高校時代はレスリング部に所属した。 中央大学へ進学後もレスリング部に所属し、主将まで務めた。 1992年に大学を中退後、UWFインターナショナルへ入団し、レスリング技術と共に打撃技を身に付けた。 翌年8月にプロデビューを果たし、若手プロレスラーとして実績を積んでいった。 1995年の新日本プロレスとの対抗戦では、新日プロ所属の永田裕志や石澤常光等と好試合を演じた。 1996年にUインターが崩壊すると、後継団体であるキングダムの選手となった。 Uインターでは第二次UWFの延長のように、ポイント制等の試合ルールであったがキングダムでは異なった。 オープン・フィンガー・グローブを採用し、総合格闘技に近いルールとなった。 Uインターよりもさらに競技色の強いプロレス団体となり、これが桜庭に好影響を及ぼしたのかもしれない。 桜庭に注目が集まったのは、1997年に開催されたUFC Japanヘビー級トーナメントであろう。 怪我をした先輩レスラーの代役で出場し、見事優勝を果たした。 1998年には師匠である高田延彦が創設した高田道場へ移籍した。 総合格闘技大会であるPRIDEにも正式に参戦し、桜庭ワールドを展開していく。 総合格闘家として一時代を築く PRIDE参戦後、ビクトー・ベウフォート、カーロス・ニュートン、エベンゼール・フォンテス・ブラガ、アンソニー・マシアス等のミドル級の実力者を次々と破り、1999年11月にホイラー・グレイシーとの対戦を迎えた。 因縁のグレイシー一族との一戦であり、当時総合格闘技と言えば、グレイシー一族が第一人者であったことは間違いない。 しかも師匠の高田は、一族で一番強いとされるヒクソン・グレイシーと二度対戦し、二度とも同じ技で敗北している。 リベンジという言葉が自然と浮かんで来ても、仕方がないであろう。 周囲の期待に応えるように、2Rレフリーストップ勝ちとなり、グレイシー・ハンターのスタートを切った。 2000年5月には今でも語り続けられているホイス・グレイシーとの試合があった。 ルールでもめながらも、7R開始直後にホイスのセコンドがタオルを投入したことで、TKO勝利となった。 これを機にPRIDEでは桜庭時代が到来したと言え、彼の絶頂期でもあった。 全国的に名を馳せることになり、日本の総合格闘家の第一人者となったことは間違いない。 同年8月にはヘンゾ・グレイシーと対戦し、TKO勝利を収めた。 12月にはハイアン・グレイシーと戦い、判定勝ちとなった。 グレイシー一族を名乗る四人の格闘家を破ったことから、グレイシー・ハンターと呼ばれるようになった。 しかし桜庭の転機は、翌年早々に訪れる。 桜庭と同じくPRIDEミドル級で頭角を表していたヴァンダレイ・シウバと3月に試合が組まれ、いつもの桜庭ワールドを展開できずTKO負けとなった。 以降、復帰戦等を飾るも、かつての勢いが衰えたと言えるだろう。 その後、DynamiteやDREAM等の大会に出場し、同じUWF系の船木誠勝とも総合格闘技の大会で対戦した。 プロレスのリングにも上がるようになり、現在では、QUINTETという寝技のみの大会のプロデューサー兼選手として、活動している。 三戦をピックアップ 桜庭和志の試合を独自の視点から3つ選んでみた。 まず始めに桜庭と言えば忘れてはいけない試合があろう。 2000年5月に行われたPRIDE GRANDPRIX 2000の準々決勝の一戦である、対ホイス・グレイシーだ。 PRIDE GRANDPRIX 2000の準々決勝とはいえ、グレイシー側がルール変更を求めた。 桜庭側もそれに対抗して直前までルールで揉めたようであるが、最終的には1R15分の無制限ラウンド等のルールで合意となり、レフェリーストップと判定のない試合になった。 結果は7R開始早々にホイス陣営からタオルが投入され、桜庭が勝利した。 リング・アナウンサーのコールが起こると、会場には割れんばかりの歓声が沸き上がった。 試合は桜庭がのらりくらりとホイスの攻めをしのぎながら、的確なキックを駆使していった。 タオル投入の理由が足の自由が効かなくなったことのようで、桜庭の鋭いキックがホイスを徐々に痛めつけていた証でもあろう。 次に対ヴァンダレイ・シウバ戦を取り上げる。 シウバとは合計3度の対戦があるが、いずれも敗北している。 桜庭がグレイシー・ハンターなら、シウバはサクラバ・ハンターになるかもしれない。 とりわけ、2001年3月に行われた最初の対戦である。 PRIDE13の一戦でもあり、メインの試合でもあった。 ゴングが鳴ると両者が睨み合っていたが、タイミングを計ってシウバが前に出た。 彼の特徴であろう超攻撃的なスタイルで、桜庭の顔面にパンチを決めて行った。 桜庭の悪い癖として、ムキになって相手に合わせてしまうところがある。 この日は悪いところが前面に出てしまった。 シウバの打撃に応じてしまい、のらりくらりと交わすことをしなかった。 桜庭がうつ伏せになるとシウバのサッカーボールキックが決まった。 レフェリーが試合を止め、桜庭のTKO負けとなった。 振り返れば、この試合が桜庭の転換点になったようだ。 同年7月に復帰戦を飾ったが、翌年のシウバとのリベンジ・マッチではドクターストップ負け、2年後の2003年8月の三度目の決戦ではKO負けとなり、シウバには一度も勝っていない。 30代を過ぎてから徐々に体力的に落ちていったとも考えられるが、ホイスとの無制限ラウンドの激闘が、もしかすると多大な影響を及ぼしていたのかもしれない。 三試合目は移籍後のものである。 2007年12月にDynamiteのリングで行われた船木誠勝戦である。 PRIDEが消滅した後の大きな総合格闘技大会であり、大晦日の開催でもあった。 桜庭も船木もUWF関連の選手であり、しかも同年代である。 初対戦で、なおかつ船木誠勝のカムバック初戦でもあり、大いに注目された試合であった。 ゴングが鳴ると両者が互いに距離を取りながら、打撃戦が続いた。 どちらかと言えば、桜庭に有利な流れであったが、船木は体が動かないようで、あと一歩が出ない感じであった。 拮抗したような感じであったが、桜庭がテイクダウンを取り、グラウンドでも有利な展開となった。 結局チキンウィングアームロックで桜庭が勝利した。 一時代を築いたUWF関連同士の戦いであり、UWFを知る人々にとっては感慨深い試合であったかもしれない。 「プロレスラーは本当は強いんです」 桜庭和志がプロレスラー兼総合格闘家として注目を集めるようになったきっかけは、1997年に開催されたUFC Japanヘビー級トーナメントであろう。 代役として出場したにも関わらず、見事優勝を果たし、試合後のインタビューで有名な言葉を発した。 「プロレスラーは本当は強いんです」 1997年と言えば、10月に師匠である高田延彦がヒクソン・グレイシーと対戦し、KO負けを喫していた。 プロレスが死んだ日とも称され、プロレスラーは最強でなかったということが語られた。 プロレスも徐々に下火となり、総合格闘技の勢いが増して行った頃である。 桜庭が総合格闘家として成功できたのはレスリングの下地があったから、と指摘する人もいる。 しかし彼がプロレスラーであることに間違いはないであろう。 元々プロレス・ファンにはコアな人が多く、たとえプロレスはショーであっても、いざという時には強い、という思いもある。 桜庭の優勝はその後の総合格闘技ブームのきっかけを与えたものともいえ、強いプロレスラーの「真剣勝負」を見たいというプロレス・ファンが支えた部分もあったかもしれない。 いずれにせよ、桜庭は90年代後半から2000年代始めに掛けての総合格闘技ブームを支え、日本の総合格闘技を引っ張った。 師匠の高田延彦や佐山聡のように、日本の総合格闘技の下地を作った役割も重要だが、そういう下地の上で、実際に活躍したことは大きく評価されるべきであろう。 プロレスラー兼総合格闘家として現役を続けているが、総合格闘技からはほぼ退いていたと言えるだろう。 現在は寝技のみの大会であるQUINTETのプロデューサー兼選手としての活動を主とし、格闘技の奥深さや面白さを表現し続けている。 当サイトは、国内最大級の婚活パーティー・お見合い・街コン情報サイト「Parties(パーティーズ)」です。 婚活パーティーの掲載数は東京・大阪・名古屋・福岡・札幌・横浜・京都・広島・岡山含めて国内最大級!20代・30代・40代・50代の婚活パーティー・お見合い・街コンをご紹介し、「婚活コラム」ではあなたの婚活の悩みに応えます。 婚活パーティーの口コミや体験談・ブログにて、「婚活パーティー行ってきた」、をチェックしてから、あなたにぴったりの婚活パーティーを見つけることが出来ます。 当サイト「Parties(パーティーズ)」にてご紹介している婚活パーティー・恋活パーティー・街コンパーティーを、初心者・1人参加OK・個室、半個室・連絡先交換自由・趣味コン・バスツアー・今日開催・平日開催・人気職業・高学歴・ハイステータス・ぽっちゃり女性・高身長男性・低身長女性・子連れ理解者・再婚理解者・立食形式、といったこだわり検索機能を使って探すことで、あなたにぴったりの婚活パーティーが必ず見つかります。

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桜庭 和志

櫻庭 和志(さくらば かずし、1969年7月14日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家。 秋田県南秋田郡昭和町(現:潟上市)出身。 株式会社39代表取締役。 3児(男x3)の父。 新聞などでは常用漢字外の文字の使用には制約があるため、桜庭和志と表記されることが多く、著書などでも桜庭の表記が一般的である。 マネージメントはハイタイド。 秋田市立秋田商業高等学校卒業、中央大学商学部中退。 レスリングをベースに持つ。 1990年代末 - 2000年代初頭頃のPRIDEにおいて、強豪外国人に対し、互角以上の戦いを演じた数少ない日本人選手の一人。 桜庭は総合格闘技の試合では滅多に見られないような変則技を繰り出して対戦相手を翻弄することから「IQレスラー」と呼ばれ、人気を博した。 また、桜庭本人は数多くの総合格闘家が苦杯をなめてきたグレイシー一族に対し何度も勝利したことから「グレイシー・ハンター」との異名もとった。 小学生の頃に当時ブームを呼んだタイガーマスクに憧れ、レスリングの名門秋田市立秋田商業高等学校ではレスリング部で活躍した。 中央大学レスリング部では主将を務め、卒業後にはスポーツクラブのインストラクターに内定していたが、4年間で卒業できず内定を辞退。 5年生のときに入団テストを受け、プロに転向。 その際大学を中退した。 1992年7月にUWFインターナショナルへ入団した。 当初桜庭は藤原組の入団試験を受けるつもりだったという。 Uインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得する。 1993年8月13日の日本武道館大会でプロデビューするが、Uインターは1996年12月に解散。 在籍中はキモとの対戦もある。 またこの時期はサソリ固めを得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。 一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声を出している。 Uインター所属選手のほとんどが参加した新団体キングダムへ移籍。 キングダムはオープン・フィンガー・グローブを着用した顔面殴打ありのルールを採用した団体で、桜庭にとってはUWFルールからPRIDEルールへの橋渡しとなった。 1997年12月21日、怪我で欠場した先輩の金原弘光の代役として急遽UFC Japanヘビー級トーナメントに出場。 マーカス・コナンに一本勝ちし、UFC-J王者となった。 このとき「プロレスラーは本当は強いんです」と発言した。 なお、このトーナメントは日本大会限定で行われたため、UFCの正式な王者となったわけではない。 1998年に高田延彦主宰の高田道場へ移籍。 PRIDE. 2のヴァーノン・"タイガー"・ホワイト戦でPRIDEデビューした。 1999年4月29日のPRIDE. 5では前年にヴァンダレイ・シウバをKOしたばかりのビクトー・ベウフォートに判定勝利。 PRIDE参戦後はアラン・ゴエス戦(PRIDE. 4)での引き分けを挟んで、ヴァーノン・ホワイト(PRIDE. 2)、カーロス・ニュートン(PRIDE. 3)、ビクトー・ベウフォート(PRIDE. 5)、エベンゼール・フォンテス・ブラガ(PRIDE. 6)、アンソニー・マシアス(PRIDE. 7)に5連勝を飾り、ミドル級のトップコンテンダーに登りつめた。 1999年11月21日のPRIDE. 8ではメインイベントに登場し、当時不敗神話を誇っていたグレイシー一族の一人、ホイラー・グレイシーとの対戦。 1Rから15kgの体重差を生かしてホイラーのタックルを切り続けた桜庭は猪木アリ状態からのローキックでダメージを与えていく。 2Rも優勢は変わらず、引き込んだホイラーにハーフガードからチキンウィングアームロックを極めた。 ホイラーはタップせず、セコンドのヒクソン・グレイシーもタオルを投げなかったため、島田レフェリーが試合をストップした。 ホイラー陣営は猛抗議するものの裁定は覆らず、桜庭はマイクアピールで「あそこからどうやって逃げたのか知りたいです。 次はお兄さん僕と勝負してください! 」とヒクソンに対戦を要求した。 2000年1月、桜庭は「PRIDE GP 2000」に出場した。 ガイ・メッツァーの試合放棄という幕切れで1回戦を突破すると、5月の決勝大会ではホイス・グレイシーとの対戦が決定した。 ホイラー戦での裁定に不満を持つホイスはルール変更を要求、桜庭も受諾し、15分無制限ラウンド・レフェリーストップおよび判定無しで行われることになった。 試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭はホイスの道衣を脱がせようとするなどして翻弄。 桜庭がホイスの左足にローを蹴り続けたダメージで7R開始直前にホリオンがタオルを投入し、桜庭の勝利で実に90分に及ぶ死闘に終止符が打たれた。 その後準決勝に進出するものの消耗が激しく、イゴール・ボブチャンチン戦では中盤から劣勢を強いられた。 1R終了後の判定ではドローとなったものの、桜庭陣営がレフェリーにタオルを投入し、TKO負けとなった。 2000年8月27日、PRIDE. 10でヘンゾ・グレイシーと対戦、バックを捕られるもアームロックでヘンゾの左腕を脱臼させTKO勝ち。 12月23日のハイアン・グレイシー戦ではハイアンが直前に怪我した為、試合時間が10分1Rに変更された。 試合は桜庭が終始優位に立って判定勝ちを収めた。 ホイラー、ホイス、ヘンゾ、ハイアンらグレイシー一族相手に4連勝を果たし、「グレイシー・ハンター」の異名を取った。 また、ただ勝利するだけでなくファンを喜ばせるために戦うというファイトスタイルが高く評価された。 桜庭の活躍と共にPRIDEは大きく成長を遂げ、2000年の桜庭はPRIDEのエースとして全盛期を迎えていたといえる。 2001年3月25日、PRIDE. 13でヴァンダレイ・シウバと初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキックでTKO負け。 再起戦となったPRIDE. 15では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと対戦、ジャクソンのパワーに苦戦するも、最後はスリーパーホールドで一本勝ちを収めた。 2001年11月3日、PRIDE. 17で新設されたPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93kgとルールに追加された。 当時の桜庭の通常体重は85kg前後で、桜庭が希望していたミドル級は90kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった。 PRIDE. 17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負けで王座獲得に失敗した。 翌2002年8月28日にはDynamite! のメインイベントでミルコ・クロコップと対戦、下からの蹴り上げで眼窩底骨折に追い込まれ、ドクターストップによるTKO負けを喫した。 総合格闘技でのキャリア初の連敗となった。 その後も膝に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期もあった。 2003年8月10日、ミドル級グランプリに出場、シウバと3度目の対戦が行われた。 この試合は桜庭が大幅に体重を増量させて挑んだ一戦であった。 試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、桜庭のローキックにシウバのカウンターの右フックを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ3連敗となった。 2003年12月31日、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラと対戦し、判定負けを喫した。 開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩である田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。 2005年2月20日のPRIDE. 29で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。 田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず。 2005年、ミドル級グランプリに出場し、1回戦ではユン・ドンシクを破り、2回戦ではヒカルド・アローナと対戦。 パワーと体重差の影響もあり劣勢に追い込まれ、アローナの膝蹴りの連打により流血、2R終了時には顔面が大きく変形する程のダメージを負った。 自力で起き上がることもできず、タオルが投入された[7]。 この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級 -93kg 」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級 -83kg 」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった[8]。 だが桜庭は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。 2005年8月、シュートボクセ・アカデミーに出稽古のためブラジルに渡航している[9]。 PRIDE. 30においてケン・シャムロックをシュートボクセ仕込みの打撃でTKOした際は、アカデミー会長のフジマールと抱きあって共に勝利を喜んでいる。 2006年3月31日、8年2か月所属した高田道場を退団。 フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔、高橋渉、佐藤豪則と行動を共にする。

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