ショパン。 石窯工房 ベーカリー ショパン

【中古:盤質AB】 作品集 オレグ・ボシュニアコーヴィチ : ショパン (1810

ショパン

当時のヨーロッパにおいてもとして、またとして有名だった。 その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、 ピアノの詩人 とも呼ばれるように、様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。 やなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。 また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。 からポーランドで発行されていた5000紙幣に肖像が使用されていた。 また、にもショパンの肖像を使用した20の記念紙幣が発行されている。 略歴 [ ]• - 0歳:中央のに生まれる。 - 6歳:の指導を受ける。 - 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。 現存する最初の作品『』を作曲・出版。 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。 - 12歳:より・を学ぶ。 - 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学。 - に2週間滞在。 - ワルシャワ音楽院を首席で卒業。 ウィーンで演奏会を開く。 - ワルシャワを去りウィーンへ向かう。 - ウィーンを去りパリへ向かう。 デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。 - 、パリでの初の演奏会を開く。 - で両親と最後の再会。 マリア・ヴォジンスカとも再会。 - 26歳:マリアに求婚。 と出会う。 - マリアとの婚約が破棄される。 - サンドとの交際が始まる。 に滞在。 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。 - 冬、インフルエンザにかかる。 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。 - 、パリでの最後の演奏会。 へ演奏旅行。 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 、永眠。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 母・ユスティナ ショパンの父親はといい、からに16歳でに移住してきたフランス人だった。 ので、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。 元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。 フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった。 彼女は(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んでをしていた。 二人の結婚式はのブロフフ の教区の聖ロフ教会で、に執り行われた。 ユスティナの兄弟には、のでのを務めることになるがいた。 フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた。 彼は当時だったワルシャワから西に46kmの地点にある村で生まれた。 に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日はとなっているが これは本人やその家族の主張するという日付より一週間早い。 、ショパンがにパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている。 ショパンはのの日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。 登記簿には彼の名前はラテン語表記で Fridericus Franciscus 、ポーランド語表記で Fryderyk Franciszekと記されている。 彼のとなったフレデリック・スカルベク()は後に監獄を改修する仕事 に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたの設計に携わった。 また彼は第二次世界大戦での特殊作戦執行部 に所属していたクリスティナ・スカルベク()の曽祖おじにあたる。 代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ()とに結婚する。 ショパンの洗礼記録 10月、ショパンが7か月の時、サミュエル・リンデ が父にワルシャワ学院 でを教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。 学院はサクソン宮殿 内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。 サクソン宮殿はにによって軍用地として徴収され、学院はカジミール宮殿 へ移動を余儀なくされた。 カジミール宮殿には新たに設立されたも入居していた。 ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。 ショパンもワルシャワ学院にからにかけて通った。 ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった。 伝記作家のルイ・エノー はジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している。 ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。 父ニコラはとを演奏できた。 母ユスティナはに長けており、一家で切り盛りしていたの寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、 ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。 ショパンと同時代の音楽家のヨゼフ・シコルスキー の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。 彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした。 しかし、ショパンに最初にピアノのを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカ だった。 ショパンが本格的にピアノを習ったのはから、指導者はチェコ人のだった。 若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。 わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間にやと比較されるようになっていった。 同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『』を作曲した。 前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキ の印刷工房で刷られ、出版された。 後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。 これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキ の有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。 この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『』に明らかである。 この曲はにの贈り物としてジヴヌィに捧げられた。 幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。 彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた。 この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたの皇帝の御前で演奏を披露した。 また、のだったの息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿 に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した。 ユリアン・ニームチェヴィツ は、劇的『我らの交わり Nasze Verkehry』()の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している。 、ワルシャワ学院とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。 とにはシャファルニャ 、にはバート・ライネルツ(現:) 、には、にはサンニキ を訪れた。 休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。 この経験は後になって彼の作品へと形を変える。 シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙 は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディ として仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。 以降 ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。 には演奏会での曲を弾くとともにで聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。 ショパンはに出身の作曲家(エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。 実はショパンが最初にエルスネルに会ったのはであり、にも非公式にアドバイスを受けていたのは間違いない [ ]。 そしてに本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて・・の勉強を開始した。 エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。 ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。 エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした。 クラジンスキ宮殿。 ショパンは南館(左側)に住んだ。 に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区 のクラシンスキ宮殿 南館に移り住んだ。 この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。 ショパンはにワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。 からには詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィト が芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。 彼は後にでロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノ Fortepian Szopena』という詩を詠んだ。 ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。 ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。 ショパン ミエロシェフスキ作 、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキ がショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた。 一番下の妹のエミリアはに亡くなっていた。 これらの肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はの写真が残る。 にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュ はこう記した。 「(この肖像画からは)この若者がに罹っていることがわかる。 彼の肌は極端に白く、が見られ、頬は落ち窪んでいる。 また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。 ショパンの妹のエミリアの14歳での死因も結核であり、また父もに同じ病に倒れることになる。 ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキ によれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。 なぜならショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。 や、ですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである。 ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた。 しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。 そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカ である。 親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。 彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた。 彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ 、ユゼフ・ザレスキ 、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった。 青年期 [ ] の邸宅での演奏会 、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。 家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキ が 学会に出席するので同行して、に赴く。 ベルリンでは、の指揮する馴染みのないを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、また やなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。 また、彼はその2週間ほどの滞在中にの『』、の『』、の『』を聴いた。 その帰途ではの総督だったに客人として招かれた。 ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。 そこでショパンは『』を二人のために作曲した。 、ワルシャワに戻ったショパンはの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のと出会った。 同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、で華やかなデビューを果たす。 彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。 一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。 続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『』を初演した。 またにはワルシャワの国立劇場で『』を初演した。 この頃には『』の作曲に着手していた。 攻め込むロシア軍 演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。 、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。 ヤヒメツキ はこう記している。 「広い世界に出ていく。 こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない 」。 ショパンはに向かったが、その次には行きを希望していた。 その後、が起こる。 ショパンの友人であり、将来的には・芸術家のとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。 ショパンは一人で音楽活動をするが活躍できなかった。 ヤヒメツキはこう記す。 「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。 彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。 この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである 」。 この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンは行きを決断した。 9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。 彼はので「コンラッド(Konrad) の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。 彼は家族と市民の安全が脅かすことや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。 また「親切だったソヴィンスキ大将 」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。 そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。 「それともあなた(神)はロシア人だったのですか 」。 こうした心の痛みによる叫びは『』『』などを作曲した。 パリ時代 [ ] 『ショパンのポロネーズ』 テオフィル・クヴィアトコフスキ 作。 ショパンは9月の暮れにに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。 最初は、現在のポワソニエール大通り 27番地に住み 、翌に現在のシテ・ベルジェール 、に同38番地へ転居したように 、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民 」の一人となったことになる。 2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。 大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。 「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである 」。 その3ヶ月前の12月には、がショパンの『 Op. 2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。 「諸君、脱帽したまえ、天才だ 」 パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。 彼は、、、、、、、、、らと交友関係を築いた。 ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが 、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。 フランスので旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる。 このフランスの旅券が発行されたのはであり、これを境にショパンはフランスの市民となった。 ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。 後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはだった。 サロンは貴族や芸術・文学のの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。 彼の健康状態は思わしくなく、そのためとしてあちこち外遊することはできなかった。 一度で演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという。 彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた。 アーサー・ヘドレイ はこう見ていた。 「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである 」 、ショパンはに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。 5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア(Maria)はその時16歳になっていた。 その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう。 翌の9月にはヴォジンスキ一家とでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。 彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さ によって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。 この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより 、結婚はついに現実のものとはならなかった。 ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた。 ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『』に残されている。 パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。 これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。 それらはポーランドロマン派 の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ 、ヨゼフ・ザレスキ 、の詩に曲をつけたものだった。 婚約破談後は、ポーランド人のがショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。 彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『』を献呈している。 パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。 そのような掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。 例えば、の演奏会ではショパン、、がの『』を演奏し、にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン(Adolphe Gutman)、とその師の の4人で、アルカンのピアノ8手用編曲での『』を演奏している。 また、ショパンはリストのの主題による『』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。 ジョルジュ・サンドとの生活 [ ] ショパン 、友人であり仲間だった作曲家のの愛人だったのホームパーティーの場で、ショパンはとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。 ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた。 彼はにこう宣言している。 「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。 疑いたくなってしまうよ 」。 その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。 マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた。 の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった。 彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったでの冬( - )が挙げられる。 彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。 しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサ のかつてのだった建物の軒を借りざるを得なくなった。 ショパンもまた自分ののピアノを輸送するのに問題を抱えていた。 ピアノはにパリから到着していたが、で止められてしまったのだ。 ショパンはにこう記している。 「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。 彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。 その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。 、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。 「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。 3人の医者が往診に来た。 1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」 にジョルジュ・サンドが300(要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。 それが届いたのはだった。 その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。 『』の数曲、『』の改定稿、Op. 40の『2つのポロネーズ(と)』、『』、『』のホ短調、 そしておそらく手を入れたであろう『』である [ ]。 このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。 冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。 愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。 そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却した。 4人の一行はまずへ、次にへと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。 5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアン を目指した。 彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。 ショパンはすぐに現在のトロンシェ通り()5番地のアパートを離れ、現在のピガル通り()16番地のサンドの家へ移り住んだ。 4人はその住所での10月からの11月まで一緒に暮らしたが、まで夏季のほとんどはノアンで過ごした。 彼らはに現在のパリ9区スクワール・ドルレアン()があるテブー通り()80番地に移り、隣同士の建物で暮らした。 サンドの住居の銘板 この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。 で急逝した歌手のアドルフ・ヌリ の遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはの『天体 Die Gestirne』の編曲を演奏した。 ノアンでの夏、特にからにかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。 ショパン作品の中でも有名な『』もそうした作品である。 サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。 ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。 友人のと過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。 ショパンはピアノに向かっており、誰もがあからさまに耳を傾けている。 彼は気ままなを始めたが、止めてしまった。 ドラクロワが声を上げた。 「続けて、続けて!まだ終わってないよ!」「始まってもいないよ。 何も思い浮かばないんだ……ただ反射と影、形の定まらないものだけしか出てこない。 ちゃんとした色を見つけようとしてるんだけど、形すら決まらないんじゃ……」ドラクロワはこう声をかける。 「どっちか片方だけ見つかるっていうことはないだろうさ。 二つは一緒に現れるものだから。 」「もし月明かりしか見つからなかったらどう?」「ということは反射の反射を見つけたということだろう」。 この言葉がショパンの腑に落ちたらしい。 彼は再び演奏をはじめ、今度は形に不安そうな様子は見せなかった。 次第に静かな色が姿を現し、それに伴ってまろやかな音の抑揚が我々の耳に届いてくる。 突如青色の音が歌い始めたかと思うと、夜が我々をすっぽり包む。 それは真っ青に透き通った夜だ。 明るい雲が素敵な形となって空を覆う。 雲は月と一体となり、大きな朧げな円を描く。 そして眠っていた色が目を覚ますのだ。 我々は夏の夜を思い描きつつ、そこに座ってが歌うのを待つのである……。 ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。 サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。 そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた。 、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。 には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のとの関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。 サンドはに小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani』を出版した。 主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。 サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。 、彼はノアンを訪れなかった。 共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった。 そのような友人の1人にのがいる。 サンドはにヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。 ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりとに師事する優れたピアニストでもあった。 彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた。 2人はしばしば共演することもあった。 ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。 彼はお返しとして、ヴィアルドから ()を直接知ることができた。 、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた。 なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。 「もし(ショパンが)G. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はの歳まで生きていただろうに 」• 頃 ドゥヴェリア 作 ショパンのとしての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。 に彼はパリでの最後の演奏会を開く。 パリではが進行中だった4月 、彼はへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた。 この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたとその姉のカセリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。 また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。 彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった。 夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有する近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(に程近いのジョンストン にあった)に滞在した。 そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。 ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。 ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。 それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった。 10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で 、ショパンは最後の遺言をしたためた。 「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。 スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた。 、彼はロンドンのギルドホール の演奏段上で最後の公開演奏を行った。 それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった。 この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。 ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである。 11月の終わりにショパンはパリへ戻った。 イギリス旅行はロンドンでのの御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた。 冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。 ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。 生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった。 、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。 それらの手紙の日付はからとされており、彼の日常生活と『』に関する記述がなされている。 手紙は博物館でまで展示されていた。 最期 [ ] 『死の床にあるショパン』 テオフィル・クヴィアトコフスキ 作 ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。 6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた。 同年9月にはの陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ。 それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした。 になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。 この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。 ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。 また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。 もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいたのだが。 彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。 彼は紙片を要求し、そこにこう記した。 (土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。 生き埋めになりたくないんだ。 ) 」。 の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。 「もう何も感じない」とショパンは答えた。 そして午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った。 ショパンの 作 写真: ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。 死亡診断書では死因はとされている。 一方でショパンの病気は他の疾患(たとえばのなど)とする説もある。 しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのないにおいて、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る。 ショパンが長く苦しんだ病についての総説がに出版されている。 文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高い。 ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。 彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ 」。 夜が明けてから、クレサンジェはショパンのを作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。 彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区 の聖十字架教会 のレオナルド・マルコーニ 作のの下の柱に、と思しきアルコールに浸けられて収められた。 そこには6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。 ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。 現在の教会はので大きく破壊されて再建されたものである。 教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿 からすぐ近くのところにある。 ショパンの墓 パリので行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れてに行われることになった。 予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた。 招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された。 の『』が歌われることが、急遽決められた。 これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。 ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである。 『レクイエム』は大部分がによって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。 しかし、教会は女性歌手を黒いのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。 『レクイエム』のは、がジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan) 、がショパンとサンドの友人だった 、がアレクシス・デュポン 、がや、の葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケ である。 また、ショパンの『』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。 葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。 葬送の行進は町の中央のの隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のまでの非常に長い距離にわたった。 葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたであり、芸術家たち(やの、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた。 埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベール のによるショパンの『』が演奏された。 このことについて、参列していたは後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている。 ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽ののが壊れたの上で涙を流す姿をかたどったものである。 葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000だったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはが負担した。 スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある [ ])。 ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。 人物 [ ] 生涯を通じてに悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。 しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。 幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。 後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。 故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」()と評されることもある。 女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家との9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。 ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。 一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にとは彼の作品に影響を及ぼした。 例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。 また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。 『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。 同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。 性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えばにに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して )。 は2枚残されており 、の写真は損傷が激しい。 もう1枚は、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンによって撮られたものである。 フレデリック・ショパン博物館(オストログスキ家宮殿)。 ポーランド、ワルシャワ ショパンの書簡に関する問題 [ ] ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ティトゥス・ヴォイチェホフスキら一部の友人及びら後世のポーランドの伝記作家がな動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している。 代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンが伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。 これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。 彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。 -に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。 ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存している。 作品 [ ] 詳細は「」を参照 ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。 出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。 ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。 サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。 ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったをはじめとするショパン研究者によって出版された。 主な遺作には、『』『』などがある。 フォンタナは、ショパンの原稿に手を加え、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。 遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。 なおショパンの作品の分類番号は2つある。 KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。 編曲 [ ] オーケストラ曲 [ ] 有名なものとして、いくつかの楽曲にを施してまとめた数種のバレエ音楽がある。 (Les Sylphides) - 初演のバレエ曲目。 バレエ演目としてのショパンの編曲では最も有名なもの。 編曲者は多数にわたるが、次項のグラズノフを含む。 (La Sylphide) - 初演のバレエ曲目と混同される事があるが、こちらはショパンとは関係ない。 (Chopiniana) - 編曲によるもの。 バレエ音楽としての『レ・シルフィード』そのものを指す場合と、『レ・シルフィード』からグラズノフの編曲によるものをさらに抜粋した演奏会用組曲を指す場合がある。 英雄ポロネーズや軍隊ポロネーズ、ノクターンやマズルカなどにオーケストレーションが施されている。 ピアノ曲 [ ]• 『ポーランド歌曲集』 - ショパンの歌曲集作品74をピアノ独奏用に編曲。 『エレジーと葬送行進曲 作品71』 - 前奏曲作品28-4と作品28-6の編曲。 『ショパンの2つの前奏曲の主題による即興曲』 - 前奏曲作品28-11と作品28-14の合体編曲。 『ピアノのための5つの特別練習曲』 - 第1番 作品64-1の編曲 ・第2番 作品42 ・第3番 作品29 ・第4番 作品25-6 ・第5番 作品64-2。 歌曲 [ ]• 『6つのマズルカ』 - ルイ・ポメ Louis Pomey のフランス語の詞による歌曲への編曲。 ショパンの面前でも演奏された。 第1集(出版)作品6-1・作品7-1・作品24-1・作品33-3・作品50-2・作品68-2の編曲。 第2集(頃出版)作品6-4・作品7-3・作品24-2・作品33-3・作品50-1・作品67-1の編曲。 楽譜 [ ] ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)ややペータース社などの楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。 通称 「パデレフスキ版」または「クラクフ版」 全27巻の中から1曲または数曲を収めたピース版と作品選集も刊行されている。 通称「エキエル版」または「ナショナル・エディション」 (補遺作品集以外は、2010年に完結) に装丁デザインが変更された。 要約及び校訂報告がポーランド語版だけでなく英語版も出版された。 一部の楽譜ではフランス語版とドイツ語版も出版されている。 版 ブロニスラウ・フォン・ポツニアク (ブロニスワフ・プズニャク)とヘルマン・ショルツ編集 ショパン全集・新校訂による原典版 (ロンドン・ペータース社から現在刊行中) ウィーン原典版 ヤン・エキエル編集。 但し、エチュード集が編集で24の前奏曲作品28がコンラート・ハンゼン編集。 ヘンレ社原典版 (通称「ヘンレ版」) 旧ショパン集・Ewald Zimmermann校訂による旧原典版 1980年代の校訂。 版(による校訂。 通称 「コルトー版」) 版(およびによる校訂) 版 版(による校訂) 版 エチュードのみ山崎孝校訂による原典版もある。 メディア [ ]。 Paul Pitmanによる演奏。 うまく聞けない場合は、をご覧ください。 フレデリック・ショパンを扱った作品 [ ] 題名及び歌詞に出てくる楽曲 [ ]• 『』作品9 -• 第11曲の「キアリーナ」 や(第16曲の途中にある間奏曲)と共に第12曲のタイトルとして現れている。 『』作品21 -• 第1部第5曲が『ショパンのワルツ』と題されている。 『とのいる自画像、背景にショパンもいる』 -• 繰り返しを基調とするリゲティ自身の1970年代以降の音楽について、アメリカ発のとの共通性を題名で告白しているが、同時にその源流をショパンにも見いだしている。 18の小品『15. ショパン風に』Op. 72-15 -• 『気分』第5曲 練習曲「ショパンへのオマージュ」Op. 73-5 -• 『ショパンの主題による変奏曲』- (ショパンの『24の前奏曲』第7番イ長調による。 第10変奏には幻想即興曲のメロディも使われている)• - にの男性歌手が発表した楽曲。 英語で歌われており、原題は『』。 日本でも with C-POINTのほか日本語カバーが複数存在する。 映画 [ ]• - 公開のドイツ映画。 ショパンの伝記映画であり、『12の練習曲 作品10』の第3番が「」と呼ばれる所以となった作品。 - ショパンの伝記映画。 公開のアメリカ映画。 - ショパンとサンドの恋愛を描いた公開のポーランド映画。 - 公開。 ショパンを扱った作品ではないが、ショパンのピアノ曲が多数演奏される。 小説・漫画 [ ]• - ショパンを主人公としたの長篇小説。 - ポーランド時代のショパンが登場するの漫画。 - ショパンとリストの友情を描いたの漫画。 - ショパンの精霊が現代の日本で現れるの漫画。 ゲーム [ ]• - が開発し、バンダイナムコゲームス(現・)より発売された。 - 株式会社内のスタジオ「エックスフラッグ」から配信されている・用。 使用キャラクターとしてショパンが登場する。 ラヴヘブン - 株式会社アンビションから配信されている・用。 使用キャラクターとしてショパンが登場する。 アニメ [ ]• - 制作のアニメーション。 登場人物としてショパンが登場する。 - で放送されたのテレビスペシャルシリーズ。 過去の登場人物としてショパンが登場する。 脚注 [ ] 注釈• 『ショパンの生涯と手紙』の第2章冒頭で述べられている説である。 (1877年出版)、(1882年出版)、(訳、1923年)• ポーランドの画家。 ショパンの肖像画で知られる。 ポーランド中央東寄り、、ソハチェフ群の村。 ワルシャワより52kmの位置にある。 特に姉のルドヴィカ( - )とは仲がよく、読み書きやピアノを彼女から教わった。 2人は終生仲睦まじく書簡を交わし、ショパンは彼女が『』を練習するために『』を作曲した。 ルドヴィカはショパンの臨終に立ち会い 、遺言に従い彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰った。 監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。 戦時経済担当大臣()のヒュー・ダルトン()によって組織された部隊。 、、の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。 ポーランド国立ショパン博物館分館。 ブロフフ村。 ここでショパンの両親が結婚し、またショパンがとを受けた。 「この聖域において、村で誕生のフレデリック・ショパンがに洗礼を受けた」• 写真はショパンがを受けたときにも使われた。 ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。 ワルシャワ学院の校長だった。 開校のワルシャワの。 のの後、に閉鎖された。 ので破壊され、さらにドイツ軍の計画破壊()でのみ残して消滅した。 サクソン宮殿同様の経緯でに破壊されたが、にの基金などによって再建された。 フランスのジャーナリスト・小説家。 、、イジニ・シュール・メール()生まれ。 生まれ。 音楽活動・音楽評論活動などを行った。 ポーランドの作曲家・外交官・政治家。 に仕え、為政を支えた。 以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼はで追放される。 生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。 中級貴族の御曹司であり、の側近として仕えた。 ポーランド中央北寄りの村()。 ショパンは級友のドミニク家に招かれここを訪れた。 現在のポーランド南西部、との国境に位置する、初頭にこの地方で栄えたの町。 当時は。 若きショパンも温泉を目指して訪れた。 には2度のを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。 現在では世界最大のショパン祭りが毎年開かれている。 ポーランド中央、の村。 ワルシャワから西に約79km。 これらは「シャファルニャ通信」と題された、新聞形式の手紙である。 少なくとも6通が作成されたことがわかっており、うち4通は自筆原本が残っている。 ショパンが想定していたのはクリエル・ヴァウシャフスキ紙であり、その書体・体裁を模して書かれている。 ・にショパンが滞在した。 写真はシャファルニャの。 ショパンはに訪れた。 ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。 の構内だった。 現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。 ( ポーランド語発音: )• ポーランドでも優れたの一つと考えられている。 ( IPA: )• この場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー()になっている。 生まれ。 ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。 ポーランド王の血筋に当たる。 ( ポーランド語発音: )• ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。 チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。 生まれ。 ・芸術家の。 生まれ。 生まれ。 ショパン研究家。 にはらと共にパリにショパン協会()を設立している。 ポーランドの音楽史家・作曲家。 やの教授を務めた。 ヤヒメツキのようなポーランド人作家の記した伝記には、多分にポーランド人としてのショパン、加えてそのナショナリズムを強調する傾向が見られるという指摘がある。 本文にはこの後もヤヒメツキの引用がある。 参考にする際は注意。 生まれ。 ポーランドの歌手。 にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。 2年後に結婚し、5人の子をもうける。 に失明。 にで死去。 生まれ。 ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。 また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。 ポーランドの詩人。 の友人だった。 ウクライナ詩作学校()の創設に関わる。 生まれ。 ポーランドの動物学者・昆虫学者。 40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。 生まれ。 ドイツの作曲家・指揮者・教育者。 メンデルスゾーン姉弟やなどを教えた。 初演時期などには異説がある。 各曲へのリンクなども参照。 ポーランドのワルシャワに位置する。 写真は王宮のオランジュリー。 ショパンがよく演奏会を行った。 初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。 ポーランド西部、 [ ]にある、狩猟用の宮殿・邸宅。 は大貴族()であり、その当主のに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。 現在はここでショパン祭りが毎年開催される。 このあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。 生まれ。 ポーランドの砲兵隊大将。 にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後にで殺害されたという。 ポーランドの画家。 の後は抑圧を逃れてフランスへ移住した。 ショパンに関する絵画作品を残している。 パリの大邸宅であり、ここに集まったポーランドの政治家たちのあだ名ともなった。 ( 発音: )• パリ、所有のオテル・ランベール での舞踏会の様子を描いたもの• からの間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。 これは当時ポーランドが・・の3国に分割されていたことに起因する。 生まれ。 の音楽学者。 ショパンの伝記を著した。 からにかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだった• 頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。 のに伴う抑圧により終了した。 生まれ。 ポーランドの詩人。 ショパンは彼に『』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。 生まれ。 フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。 作曲に関しては、、、らの師だった。 グノーは彼の娘と結婚している。 生まれ。 フランスの小説家。 にの会員に選ばれている。 生まれ。 フランスの小説家・劇作家。 リストの未完のオペラ『 ()』の台本を書いた。 マヨルカ島内の村。 彼らが泊まった修道院()は()の建築。 カヌ夫妻 Canutである。 カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。 フランス中央部、の。 から南東へ約36キロ。 生まれ。 フランスの歌手・台本作家・作曲家。 歌手としては特にの作品を得意とした。 ショパンは39歳で生涯を閉じたが、その友人のケルビーニは1842年にパリで81歳で亡くなっている。 両者の墓はで4メートルの距離に位置している。 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はに、サンドの部分はに所蔵されている。 生まれ。 フランスの画家・作家。 多くの作家・芸術家の肖像画を描いた。 より3、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のの一角をなす。 ロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。 現在はとその地方公共団体()の行政の中心となっている。 スターリングの委嘱で描かれた作品。 ショパンがベッドで起き上がっており、左からアレクサンダー・イェオヴィツキ、姉のルドヴィカ、チャルトリスカ公爵夫人、ヴォイチェフ・グジマワ、クヴィアトコフスキ本人の姿が描かれている。 生まれ。 ポーランドの貴族・ピアニスト。 ツェルニーに学んだあとショパン門下となる。 、、などとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。 のキャンパス正面にあるで、ワルシャワにおいて名高いの建築。 生まれ。 ポーランド及びの彫刻家。 ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。 が壊れたの上で涙を流す姿がモチーフ。 4つ左隣にはが眠る。 もしくは生まれ。 フランスの歌手。 やなどで歌っていた。 生まれ。 フランスとの血を引く歌手。 『』のレポレッロは適役だった。 生まれ。 フランスの作曲家。 ・・4曲のなどを遺している。 がより建築、のちにが購入してワルシャワでのとして使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。 撮影はのものだが、その後全面改装しに再開館している。 427. 小坂 p7. , "Chopin, Fryderyk Franciszek," , vol. III, 1937, p. 420. Michael Robert Patterson. Arlingtoncemetery. net. 2010年2月14日閲覧。 Nr 17," , 12 June 2008. 小坂 p10. The Fryderyk Chopin Institute. 2011年6月8日閲覧。 , "Chopin, Fryderyk Franciszek", , vol. III, 1937, p. 424. Fryderyk Chopin Society. 2010年2月26日閲覧。 ショパンの書簡の縮約版「フレデリック・ショパンの書簡選集 Selected Correspondence of Fryderyk Chopin」 収集、注釈Bronislaw Edward Sydow、翻訳 translated by Arthur Hedley、 McGraw-Hill, 1963, p. 116• Fryderyk Chopin Information Centre. 420. 「言葉は父から子に共通していた別の問題である。 自らの出自を隠し、自分がポーランド人であることを示そうと注意を払う外国人であったニコラは、敵の前線に潜入したスパイの如く慎重であった。 彼はポーランドで生まれた子どもたちに、自分のフランスの家族のことを1度も話さなかったようである。 フランス語は貴族にとっては『』(共通語)であり、ニコラが他人の子息に教えるものではあったが、自分の子どもには教えなかったのである(中略)結果としてフレデリックのフランス語文法と綴りの把握はおぼつかないものとなった。 並外れた『耳』と幼い頃のずば抜けた物真似を褒められていた自分物としては驚くべきことだが、彼の発音もまた貧弱なものであった。 より印象的なのは、彼が取り入れた言葉に居心地の悪さを感じていたということだった。 フランス人とのハーフで、移民天国であるパリに住みながら、ショパンは常に2重の疎外感を覚えていた。 祖国と母語からの疎外感である。 外国語という檻の中に閉じ込められたショパンにとって、音楽の持つ表現力が自分を解き放ってくれるものだったのである」Benita Eisler, Chopin's Funeral, Abacus, 2004, p. 「ショパンは半生をパリで過ごしながらもポーランド人の性質を持ち続けており、『孤独な魂』であった。 伝記作家のルイ・エノール(Louis Enault)はこう述べている。 『スラヴ人は自らを快く貸しはするが、与えはしない。 ショパンはポーランドよりもポーランド人的である。 』」 Bauer, Marion March 2007. 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David Ewen, p. 164. ショパンのフランスの。 はこう記している。 「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。 4年後、フレデリックはフランス国民となり、付けでフランスのパスポートが交付された。 彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。 彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris, p. Tad Szulc 30 December 1999. Da Capo Press. 2010年5月7日閲覧。 , , p. 264. 彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせてで肖像を描いた。 これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。 ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」, Chopin in Paris, p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女のの自画像とを比べることで想像がつく。 , p 423. , Chopin in Paris, pp. 160, 165, 194—95. , Chopin in Paris, p. 146. by Gerard Hopkins, Penguin, 1980 c 1953 , pp. 317—20. 付け記事 英語• 333, 337—8. 424. Krzysztof Rottermund, "Chopin and Hesse: New Facts About Their Artistic Acquaintance," translation in The American Organist, March 2008. , Impressions et souvenirs, chapter V, p. 338—9. 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ショパンとは〜一言で言うと、ショパンとはどんな作曲家か?

ショパン

ショパンの生涯 フレデリック・ショパンは、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。 父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。 同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。 ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。 姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。 家庭は、父がアマチュアとしてヴァイオリンを愛し、母もピアノと声楽を嗜むなど音楽的な環境にあり、ショパンは4歳からこうした家庭の中でピアノに触れるようになる。 6歳のときに、ヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを師事する。 このジヴニーのもとでのピアノ教育がショパンの音楽性の土台を形成する。 彼からショパンが与えられた作品は、モーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルであった。 1817年、一家はカジミエシュ宮殿の一画に転居し、恵まれた生活環境が実現する。 ショパンが最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲するのはこの年で、スカルベックの援助で出版された。 翌年にはラジヴィウ宮殿でピアノ協奏曲を演奏し、卓越した才能は注目を浴びる。 この時期から、ポーランドの民族的な語法に鋭い感性を示した。 1821年、11歳のショパンは65歳を迎えた恩師ジヴニーの誕生日を祝うために「ポロネーズ 変イ長調」を作曲する。 この時期すでにショパンの演奏能力が卓抜な水準にあったことを示すのが、12歳のときに行ったフェルディナンド・リースのピアノ協奏曲の演奏である。 リースは19世紀前期の代表的なヴィルトゥオーソで知られた作曲家である。 この年にショパンはユゼフ・エルスネルから作曲の指導を受けるようになる。 1823年、13歳のショパンは高等学校に入学する。 このときの学友にその後、ショパンの遺作の出版などでも貢献するフォンタナがいた。 1826年に高等学校を卒業するまでの間、ショパンはロシア皇帝によるワルシャワ訪問の際に、指輪を拝領する栄誉に浴している。 高等学校を卒業すると、エルスネルが校長を務めるワルシャワ音楽院に入学する。 作曲家としてショパンがその個性を発揮するようになるのはこのころからで、「マヅルカ風ロンド」(作品5)、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)が作曲される。 エルスネルは、作曲やピアノ演奏においても、ショパンの繊細な感性を損なうことなく、個性を伸ばすことに腐心したといわれる。 1828年、ショパンは初めて外国に赴き、ベルリンでウェーバーの「魔弾の射手」などを見る。 この年、ショパンは「ピアノソナタ第1番」(作品4)に加えて、意欲的な作品、「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)、「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)、「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)を作曲している。 この最後の作品は、1829年にウィーンのケルントナートーア劇場で催した演奏会で、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)とともに演奏されて絶賛された。 ショパンのピアノと管弦楽のための協奏曲および協奏的作品はすべてこの初期の時代に集中している。 なお、「ピアノ三重奏曲 ト短調」は、ラジヴィウ公爵に献呈されているが、ショパンは公爵の娘たちのピアノの指導を行うほか、チェロをたしなむ同公爵のためにチェロとピアノのための「序奏と華麗なポロネーズ」(作品3)を作曲している。 1829年に高等学校を卒業したショパンはウィーンに赴き、上記の演奏会を行う。 この年に「ピアノ協奏曲第2番」(作品21)が作曲されている。 ショパンはこの時期に、コンスタンツヤ・グワトコフスカという女性に深く心を寄せており、「ワルツ」(作品70-3)は彼女のために作曲された作品である。 1830年3月17日、ワルシャワで上述のピアノ協奏曲2番を初演した後、ショパンは再びウィーンに向けて旅立つ。 10月11日、告別演奏会が催され、ピアノ協奏曲第1番(作品11 や作品13が演奏される。 ウィーンに到着するものの、ワルシャワでロシア支配に抵抗する11月革命が勃発し、事態は一変する。 ポーランド人は危険人物として官憲の監視下に置かれる。 1831年、ウィーンで演奏会を開催するものの、ウィーンに失望し、やっとパリ経由ロンドン行きのヴィザを取得してパリに向かうことになる。 そして9月にパリに到着する。 その途上、シュトゥットガルトでワルシャワ革命が制圧された知らせを受け取り、大いに絶望する。 この年に練習曲「革命」(作品10-12)が書かれ、そのほか歌曲がまとまって作曲されている。 パリに着いたショパンは、リストと知り合いになり、メンデルスゾーンと再会した。 パリに到着したショパンは、当時パリで評判のヴィルトゥオーソで、ピアノ教育者のカルクブレンナーの指導を望んだ。 しかし、エルスネルは、それがショパンの個性を損ねることになると判断して指導を受けることに反対する。 カルクブレンナーは、ギド・マンというピアノ教育機器を用いた指導法を行ったことでも知られる。 パリで出会ったもうひとりの重要な音楽家が、チェロ奏者のフランコムである。 このフランコムとの出会いから、「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」が1831年に作曲されている。 ショパンはワルシャワを発つ前からフィールドのノクターンに接していたと思われ、1829年にホ短調(作品72-1)、1830年に嬰ハ短調(作品番号なし)が作曲されていた。 1832年に作曲された「ノクターン」(作品9)は、名曲として知られるが、フィールドの書法との結びつきを感じさせる。 この作品はプレイエル夫人に献呈された。 ショパンがパリで知った重要な人物に、ピアノ製造業を営むプレイエルがいた。 ショパンが「香水のような香りがする」として絶賛したそのピアノは、ショパンの音楽の霊感の源泉となった。 当時のパリにはポーランドからの亡命者が数多く滞在していた。 ポーランドの革命を率いたチャルトリスキや詩人のミツキェヴィッチらも滞在していた。 そのなかでひときわ精彩を放っていたのがポトツカ伯爵夫人で、音楽や芸術の教養あふれる彼女のサロンには数多くの文化人が集った。 彼女はショパンがもっとも信頼を寄せた女性で、ショパンの死の床でショパンの求めに応じてアリアを歌った。 パリでのショパンの人生を一変させたのが、ロトシルド ロスチャイルド)男爵の知遇を得たことであった。 1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、大富豪で知られる同男爵のサロンを訪れる。 これがショパンの社交界デビューとなった。 男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノの指導を依頼する。 その後、貴族や資産家の人々がぞくぞくピアノ指導を求めるようになり、ショパンのパリでの生計は一気に好転する。 シャルロットは音楽の才能豊かな女性で、ショパンは彼女に「バラード第4番」やワルツを献呈している。 パリに住むショパンにとって大きな気がかりは家族のことであった。 彼が両親と再会するのは1835年8月、カールスバートにおいてである。 ここはボヘミアの温泉保養地で、ショパンはここで3週間を両親と共に過ごした。 帰路、ドレスデンに滞在していたヴォジニスキ家を訪問した。 フェリックス・ヴォジニスキとは彼は寄宿舎学校時代以来の友人であった。 この滞在先でショパンはフェリックスの妹のマリアと会い、美しく成長したマリアに彼は深く心をとらわれる。 そして彼女との別れ際に「ワルツ」を贈る。 これが有名な「別れのワルツ」(作品69-1)である。 10月にライプツィヒを訪れ、メンデルスゾーンと再会するほか、シューマン夫妻と会う。 シューマンは彼が編集する「音楽新報」で、ショパンの作品2を高く評価しており、「謝肉祭」にショパンを登場させるほか、後に「クライスレリアーナ」を彼に献呈している。 翌年7月、ヴォジニスキ家のマリアとマリーエンバートで再会する。 ここもボヘミアの温泉保養地である。 ショパンはパリのロシア大使館にヴィザの更新を行うことを潔しとせず、そのために、ロシア領となったポーランドに入国することは出来なくなっており、そのために国境近くのこうした町で再会することを余儀なくされたのである。 そして9月、ショパンはマリアに求婚する。 パリに戻ったショパンはマリー・ダグーのサロンでジョルジュ・サンドと会う。 1837年2月、ショパンはインフルエンザに罹り、健康状態が悪化する。 この出来事はヴォジニスキ家の両親の心象を悪くし、7月マリアから別離を告げる手紙を受け取り、ショパンが彼女に宛てた手紙が彼のもとに返送されてくる。 ショパンはその手紙の束をリボンで綴じて「私の悲しみ」と書き記して、終生手元に置いていた。 この年、「練習曲集」(作品25)や「ピアノソナタ第2番」が作曲された。 マリアとの別離もあり、ショパンはサンドとの交際を深めるようになる。 そして同年11月、ショパンはサンドとマヨルカ島に滞在する。 この滞在期間に「前奏曲集」の作曲を進める。 しかし、かねがね患っていた結核が悪化し、翌1839年2月フランスのマルセイユに戻り、サンドが別荘を持つノアンに落ち着く。 健康状態の悪化に見舞われたが、創作面では充実しており、「前奏曲集」のほかに、「即興曲第2番」「バラード第2番」「スケルツォ第3番」「ポロネーズ第4番」などの作品が完成を見ている。 このころから1846年まで、ショパンの生活と活動は、ノアンとパリのサロンを軸に行われることになり、ノアンには、ポリーヌ・ヴィアルドやドラクロワらも訪れた。 そのようななか、1842年友人のヤン・マトゥシニスキがショパンに見取られて亡くなる。 この死はショパンに強い衝撃を与えた。 1843年冬、ショパンの病状は悪化し始め、1844年初め再びインフルエンザに罹り、重態に陥る。 春になってやっと病状が回復するが、5月25日、父の死の知らせを受け取り、深い絶望に陥る。 サンドはショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためる。 そして7月、姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れる。 ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことであった。 しかし、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中にショパンも少しずつ巻き込まれていき、とくに娘のソランジュと母サンドとの対立の構図のなかでショパンは居場所を失っていく。 その渦中の1846年に傑作「舟歌」「幻想ポロネーズ」「チェロソナタ」などの作品が書かれる。 そして1847年、ソランジュの結婚に際して、ショパンが彼女に理解を示したことから、サンドとの間に亀裂が生まれ、ついに7月28日、サンドはショパンに別離を告げる。 この別離はショパンの人生の大きな節目となった。 孤独な身となったショパンは4月、招きに応じてロンドンに渡り、ジェーン・スターリングの指導を行う。 イギリスではヴィクトリア女王の隣席の場で演奏会を催すなどの栄誉はあったが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させた。 イギリスでは、ロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラなどでも演奏会を催した。 11月にパリに戻ったショパンは病床に伏し、6月に大量の喀血をする。 姉ルドヴィカの再会を望むショパンの求めに応じて8月、ルドヴィカがパリに到着する。 10月17日、ポトツカ伯爵夫人、姉ルドヴィカに看取られて亡くなる。 葬儀は10月30日、聖マドレーヌ教会で行われた。 作品解題 「ピアノと管弦楽のための作品」 ピアノと管弦楽の編成の作品は初期に集中している。 このジャンルでショパンが最初に作曲した作品は1827年作曲の「モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》の《奥様お手をどうぞ(ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ)》の主題による変奏曲」(作品2)で、シューマンが「諸君脱帽したまえ、ここに天才がいる」という言葉によって絶賛したことで知られる。 続いて、1828年に「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)が作曲された。 この作品は1830年10月11日の告別演奏会でピアノ協奏曲第1番と共に演奏された。 同年に「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)が作曲され、1829年にウィーンで開催された演奏会で演奏され、高い評価を得ている。 クラコヴィアクは、ポーランドのクラクフ地方の舞曲をさす。 この年にピアノ協奏曲第2番ヘ短調(作品21)の作曲が開始され、1830年に完成を見ている。 とくに管楽器の用法などで想像力豊かなオーケストレーションが施されており、第3楽章では民族舞曲のオベレクの表現が取り入れられている。 続いてピアノ協奏曲第1番ホ短調(作品11)が完成する。 第2番よりも楽曲の構成は堅固で、演奏頻度も高い。 第1楽章ではマヅールおよびポロネーズのリズムが用いられ、第3楽章ではクラコヴィアクの表現が取り入れられている。 夢想的な第2楽章は非常に美しい。 これら2曲の協奏曲は、1830年にショパンのピアノ独奏で初演された。 ピアノと管弦楽のための作品でショパンの最後の作品は「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」(作品22)である。 作品は2部分からなり、1830年から35年にかけて作曲された「華麗な大ポロネーズ」に、1834年に作曲された「アンダンテ・スピアナート」が加えられた。 「室内楽曲」 ショパンの室内楽は、唯一のピアノ三重奏曲のほかは、チェロとピアノのための作品である。 「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)は1828年の作曲で、同年に作曲された「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」と同様、ピアノの協奏曲的な華麗な演奏が特徴的である。 演奏頻度は高くないが、重厚な佳作である。 「序奏と華麗なポロネーズ ハ長調」(作品3)は、チェロとピアノのための作品で、1829年から1830年にかけてラジヴィウ公爵のために作曲された。 チェロに対する関心は、パリに移り住んで以降、チェリストのフランコムとの親交を通して深められた。 「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」(b-1、作品番号なし)は、フランコムの協力を得て作曲された作品である。 「チェロソナタ ト短調」(作品65)は1846年の作曲で、ショパンの晩年期の作品に属し、フランコムのために書かれた。 表現の深さと音楽の展開や構成などの点で、ショパンの作曲したソナタの最高峰に位置する作品といっても過言ではない。 「マヅルカ」 ショパンがポーランド民族とのアイデンティティをもっとも強く表現したジャンル。 マヅルカは特定の舞曲名ではなく、彼の作曲した「マヅルカ」にはマヅール、クヤヴィアック、オベレクなどの舞曲の表現が用いられている。 マヅールはポーランドの国歌となった「ドンブロスクのマヅール」にも見られるように、ポーランドの民族性を表す象徴的な舞曲であり、またこの舞曲のアクセントはポーランド語とも関連している。 ショパンは少年時代から最晩年までこのマヅルカを作曲し続け、作品番号をもたない作品や習作、異稿を含めて60曲以上が作曲された(作品番号が付与されているのは第49番まで)。 「ポロネーズ」 ポロネーズはポーランドの宮廷舞踏で、力強いリズムを特徴とするこの舞踏はバロック時代から舞曲として用いられていた。 19世紀になるとポーランドの過去の栄光という象徴を持つにいたる。 ポロネーズは、ショパンがもっとも早くから作曲を行ったジャンルで、7歳のときに作曲したト短調のポロネーズはスカルベック伯爵夫人に献呈されている。 このほかポーランド時代にすでに少なくとも9曲のポロネーズを作曲しているが、ショパン自身が作品番号が与えられた最初の作品は作品26の2曲のポロネーズである。 第3番「軍隊」(作品40-1)や、第6番「英雄」(作品53)、第7番「幻想」(作品61)が有名。 「ピアノソナタ」 3曲のピアノソナタが作曲された。 第1番(作品4)はワルシャワ音楽院時代の習作。 ポリフォニックが書法が特徴的である。 ショパンの最初の本格的なソナタは1839年作曲の第2番(作品35)で、この作品はシューマンに驚きと当惑を与えた。 第3楽章の「葬送行進曲」は、このソナタの作曲に先立って1837年に別個に作曲された。 第4楽章は駆け抜けるようなユニゾンは衝撃的である。 第3番(作品58)は重厚でモニュメンタルで壮大な楽想のソナタで、1844年の作曲。 「スケルツォ」 スケルツォは、これまではソナタの中間楽章の一つに用いられていたが、単独の作品ジャンルへと高めたのはショパンである。 4曲作曲され、第1番(作品20)は、中間部にポーランドのクリスマス・キャロルの旋律が引用されている。 第2番(作品31)はもっとも有名。 第4番(作品54)は全4曲の中の唯一の長調。 「ノクターン」 フィールドの創始したノクターンに芸術的な生命を与えたのはショパンである。 遺作を含めて21曲のノクターンが作曲された。 夢想的でゆったりと流れる音楽は、ロマン派の音楽の新しい表現世界を切り開くもので、その後この語法は特にピアノのための性格小品に応用された。 「前奏曲集」 バロック時代においてとくにオルガン音楽で盛んに行われたジャンルであった。 単独の小品として作曲するだけではなく、これに19世紀の新たな生命を与えたのはショパンである。 24のすべての長短調を用いて作曲したのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」からの影響を示している。 作曲は1838年から39年にかけて行われた。 作品10はリストに、作品25はマリー・ダグー伯爵夫人に献呈された。 演奏会用練習曲という新しい世界を開拓しただけではなく、ピアノの演奏技術を大きく変革した作品集である。 作品10はおそらくすべての長短調を網羅することを意図したと思われる。 同じ発想はリストやフンメルももっていた。 「即興曲」 ロマン派で愛好されたジャンルで、ショパン以前ではシューベルトが有名である。 ショパンは4曲の即興曲を作曲している。 第1番変イ長調(作品29)は1837年作曲、第2番嬰ヘ長調(作品36)は1839年作曲、第3番変ト長調(作品51)は1842年の作曲。 もっとも有名な「幻想即興曲」(作品66)は、1834年の作曲であるが生前は出版されず、死後の刊行。 「ロンド」 ロンドはほとんどが初期の作品である。 「ロンド ハ短調」(作品1)は1825年の作曲で、同年ワルシャワで刊行されたが、そこでは作品番号は与えられていない。 1835年にベルリンで再販されたときにこの番号が与えられた。 「マヅルカ風ロンド」(作品5)は1826年の作曲で、主題にマヅルカを用いている。 「ロンド 変ホ長調」(作品16)は1833年の作曲。 「ロンド ハ長調」(作品73)は2台ピアノ用作品。 1828年にピアノ独奏用に作曲されたが、二台ピアのように編曲され、死後に出版。 「変奏曲」 作品番号をもつのは、エロールのオペラ「リュドヴィク」のアリアの主題による「華麗な変奏曲 変ロ長調」(作品12)のみで、1833年の作曲。 作品番号を持たない作品として、「ドイツ民謡の主題による序奏と変奏曲 ホ長調」(1824年作曲)や、連弾用の「変奏曲 ニ長調」(1826年作曲)、「パガニーニの思い出 イ長調」(1829年作曲)がある。 ベッリーニのオペラ「清教徒」の行進曲の主題による共作変奏曲「ヘクサメロン」の第6曲を作曲。 これはリスト、タールベルク、ピクシス、ヘルツ、チェルニーらとの共作である。 「単独作品」 「コンセール・アレグロ イ長調」(作品46)は、元来、ピアノ協奏曲の第1楽章として1841年に作曲されたが、その後ピアノ協奏曲の完成を断念し、独奏曲として出版された。 この作品はほかの作曲家の手でピアノ協奏曲に編曲されている。 「幻想曲 ヘ短調」(作品49)も1841年の作曲で、重々しい下行動機で開始する作品で、全体の構成はソナタ形式的で、劇的な内容の作品である。 「子守歌 変ニ長調」(作品57)は1844年の作曲で、作品は変奏曲である。 右手の主題が、転調を含まず全部で10回反復され、装飾によって彩られる。 「舟歌 嬰ヘ長調」(作品60)はショパンの晩年期の1846年作曲の作品である。 8分の12拍子のゆったりと揺れるような左手の分散和音にのって繊細な表現される。 その他、「ボレロ」(作品19)、「タランテラ」(作品43)、「葬送行進曲」(作品72-2)、「3つのエコセーズ」(作品72-3)のほかに、作品番号を持たない小品がある。 「歌曲」 1827年から晩年の47年までの間に作曲され、1857年に「17のポーランドの歌」曲(作品74)として刊行された。 ショパンとピアノ ワルシャワ時代のショパンが用いていたピアノの製造者は明らかではないが、間違いなくウィーン・アクションのピアノであった。 ベートーヴェンは、イギリス・アクションのエラールやブロードウッドのピアノを用いた時期があるが、当時のオーストリアやドイツ地域、さらにポーランドなどで主に用いられていたのは、伝統的なウィーン・アクションのピアノである。 彼が1829年、ウィーンで催した演奏会で用いたピアノは間違いなくウィーン・アクションのピアノである。 パリでショパンを魅了したのはプレイエルのピアノである。 このプレイエルのピアノはイギリス・アクション、つまり現在のピアノの打弦方式によるピアノであるが、そのアクションは同じイギリス・アクションのエラールとは異なっていた。 エラールはダブル・エスケープメントを開発して、急速な打鍵の可能なピアノを製造していた。 それに対してプレイエルは、ウィーン・アクションで一般的であった伝統的なシングル・エスケープメントの打弦方法を用いていた。 急速な打鍵は容易ではないが、自然で薫り高いこの楽器の音色を彼はこよなく愛したのである。 ショパンの語った言葉、「調子のよいときはプレイエルを弾き、そうではないときはエラールを用いる」は有名である。 エディションの問題 ショパンの楽譜で常に大きな問題となるのがエディションである。 現在、いわゆるナショナル・エディションとしてエキエル版が刊行されて、これが標準的な楽譜として用いられている。 しかし、このエキエル版によってショパンのエディション問題が氷解したわけではない。 ショパンは、自筆譜のほかに、イギリスとドイツ、フランスでそれぞれに楽譜を出版した。 これは国際著作権が確立していない当時にあっては、違法な海賊版から守るための止むを得ない方法であった。 しかし、この3つの版がそれぞれ異なっているために、ショパンの最終的な意思が特定することができなくなってしまったのである。 エキエル版以前は、同じくナショナル・エディションとしてパデレフスキー版が広く用いられていた。 ピアニストであったパデレフスキーの経験を踏まえた版として広く親しまれてきている。 そのほか、コルトー編のコルトー版も今日においても価値ある版として通用している。 歴史的な版としては、ブラームス校訂やドビュッシー校訂の楽譜も編まれた ピアノ音楽史におけるショパン ショパンのピアノ作品はきわめて個性的であるが、同時に19世紀ピアノ音楽のさまざまな音楽傾向と結びつきを持っている。 ワルシャワ時代にショパンが師のジヴニーのもとでモーツァルトやフンメルの作品を学び、ポーランド人作曲家の作品としてマリア・シマノフスカやユゼフ・エルスネル、ヴァイオリニストでシューマンの尊敬を得ていたカロル・クルピニスキらの作品に加えて、オギニスキなどの作曲家の作品に接していた。 ワルシャワ時代にショパンがポーランド人の作曲家の作品に広く接していたのは間違いない。 オギニスキのポロネーズ「さらば祖国」は、ショパンのポロネーズの共通の語法である。 また、エルネルの作品はロシア支配に対するナショナリズムを反映している。 ショパンの作風の基盤を形成した作曲家として注目されるのが、ネポムク・フンメルである。 晩年のモーツァルトに師事し、その後ハイドンやサリエリに学んだこの作曲家の語法は、間違いなくショパンの作風の源流の一つである。 フンメルは緩徐楽章における豊かな装飾表現をモーツァルトから受け継いだ。 旋律を、きらびやかなパッセージによって華麗に変奏する表現は、ショパンに受け継がれている。 1816年頃に作曲されたフンメルの「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品85)は、その後のショパンの創作を予感させる。 ショパンが「練習曲」(作品10)を作曲したときにすべての長短調を網羅する発想を抱いたと思われ、その思想はその後「前奏曲集」で結実する。 すべての長短調を用いるという思想は、フンメルも試みている。 ショパンの上記の練習曲集の作曲後の1833年に刊行された「24の練習曲」(作品125)はすべての長短調を用いた練習曲集である。 ショパンがワルシャワ時代に影響を受けた作曲家にアイルランド出身のジョン・フィールドもいる。 ペテルブルクで活躍したフィールドの創始したノクターンはワルシャワでも広まっていたことは確かで、ショパンの初期のノクターンははっきりとフィールドからの影響を示している。 影響が明確なのは作品9の3曲で、その後のノクターンではショパンの独自の作風を発揮している。 ショパンがフィールドから得た影響はノクターンだけではない。 フィールドは全部で7曲のピアノ協奏曲を作曲したが、オーケストラ伴奏で演奏する協奏曲のほかに、彼はピアノを含む室内楽版やピアノ独奏版も編曲している。 フィールドのノクターンの何曲からはピアノ協奏曲の緩徐楽章の編曲である。 ピアノ協奏曲を、ピアノを含む室内楽版で演奏する習慣は、モーツァルトの時代から行われていたが、フィールドの書法は19世紀における創作の一つの模範となった。 これらの編曲を前提としているために、ピアノ協奏曲のオーケストラは、ピアノ独奏の部分では非常に薄い書法が用いられている。 ショパンもこの書法を受け継いでいる。 また、ショパンの2曲のピアノ協奏曲も、ピアノを含む室内楽版でも演奏されていた。 ショパンの「コンセール・アレグロ」(作品46)はピアノ独奏曲として出版されたが、本来はピアノ協奏曲の第1楽章で、ピアノ協奏曲のピアノ独奏版とも解することが出来る。 ショパンは、同時代のシューマンやメンデルスゾーン、リストとは異なった形で19世紀の歴史主義を受け止めている。 メンデルスゾーンが「前奏曲とフーガ」を作曲し、シューマンやリストがペダルフリューゲルやオルガン用の作品でバッハの書法を受容した。 それに対して、ショパンは、すべての長短調を用いた「前奏曲集」を作曲することで、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の精神を19世紀音楽にもたらしている。 ショパンは、ワルシャワ音楽院時代に作曲の科目として対位法やフーガを学んでおり、その痕跡は「ピアノソナタ第1番」に示されている。 彼が自身の創作にこの対位法を生かしたのは、1840年代に入ってからである。 とくに「マヅルカ」(作品56-3)は、複雑な対位法の書法を用いて書かれており、19世紀の歴史主義を反映している。 ショパンは3曲のピアノソナタを作曲している。 シューマンはショパンがピアノソナタ第2番を作曲したときに、批評の筆を執っている。 その作品批評は皮肉を込めた肯定的なものではないが、ピアノソナタをこの時代にあえて作曲したことに驚きを隠さない。 ソナタとソナタ形式は、作曲の教養と学識の象徴となり、作曲家が創造性を発揮する場ではなくなっていったなかで、ショパンのとくに第2番と第3番はピアノソナタの歴史の中で画期的な価値を有している。 このソナタ形式の原理は、3曲のピアノソナタやチェロソナタだけではなく、スケルツォやバラードの創作の土台ともなっている。 これらは一般に3部形式として論じられる場合が多いが、むしろソナタ形式が基礎となっていると考えられる。 ショパンの生涯 フレデリック・ショパンは、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。 父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。 同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。 ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。 姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。 家庭は、父がアマチュアとしてヴァイオリンを愛し、母もピアノと声楽を嗜むなど音楽的な環境にあり、ショパンは4歳からこうした家庭の中でピアノに触れるようになる。 6歳のときに、ヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを師事する。 このジヴニーのもとでのピアノ教育がショパンの音楽性の土台を形成する。 彼からショパンが与えられた作品は、モーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルであった。 1817年、一家はカジミエシュ宮殿の一画に転居し、恵まれた生活環境が実現する。 ショパンが最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲するのはこの年で、スカルベックの援助で出版された。 翌年にはラジヴィウ宮殿でピアノ協奏曲を演奏し、卓越した才能は注目を浴びる。 この時期から、ポーランドの民族的な語法に鋭い感性を示した。 1821年、11歳のショパンは65歳を迎えた恩師ジヴニーの誕生日を祝うために「ポロネーズ 変イ長調」を作曲する。 この時期すでにショパンの演奏能力が卓抜な水準にあったことを示すのが、12歳のときに行ったフェルディナンド・リースのピアノ協奏曲の演奏である。 リースは19世紀前期の代表的なヴィルトゥオーソで知られた作曲家である。 この年にショパンはユゼフ・エルスネルから作曲の指導を受けるようになる。 1823年、13歳のショパンは高等学校に入学する。 このときの学友にその後、ショパンの遺作の出版などでも貢献するフォンタナがいた。 1826年に高等学校を卒業するまでの間、ショパンはロシア皇帝によるワルシャワ訪問の際に、指輪を拝領する栄誉に浴している。 高等学校を卒業すると、エルスネルが校長を務めるワルシャワ音楽院に入学する。 作曲家としてショパンがその個性を発揮するようになるのはこのころからで、「マヅルカ風ロンド」(作品5)、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)が作曲される。 エルスネルは、作曲やピアノ演奏においても、ショパンの繊細な感性を損なうことなく、個性を伸ばすことに腐心したといわれる。 1828年、ショパンは初めて外国に赴き、ベルリンでウェーバーの「魔弾の射手」などを見る。 この年、ショパンは「ピアノソナタ第1番」(作品4)に加えて、意欲的な作品、「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)、「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)、「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)を作曲している。 この最後の作品は、1829年にウィーンのケルントナートーア劇場で催した演奏会で、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)とともに演奏されて絶賛された。 ショパンのピアノと管弦楽のための協奏曲および協奏的作品はすべてこの初期の時代に集中している。 なお、「ピアノ三重奏曲 ト短調」は、ラジヴィウ公爵に献呈されているが、ショパンは公爵の娘たちのピアノの指導を行うほか、チェロをたしなむ同公爵のためにチェロとピアノのための「序奏と華麗なポロネーズ」(作品3)を作曲している。 1829年に高等学校を卒業したショパンはウィーンに赴き、上記の演奏会を行う。 この年に「ピアノ協奏曲第2番」(作品21)が作曲されている。 ショパンはこの時期に、コンスタンツヤ・グワトコフスカという女性に深く心を寄せており、「ワルツ」(作品70-3)は彼女のために作曲された作品である。 1830年3月17日、ワルシャワで上述のピアノ協奏曲2番を初演した後、ショパンは再びウィーンに向けて旅立つ。 10月11日、告別演奏会が催され、ピアノ協奏曲第1番(作品11 や作品13が演奏される。 ウィーンに到着するものの、ワルシャワでロシア支配に抵抗する11月革命が勃発し、事態は一変する。 ポーランド人は危険人物として官憲の監視下に置かれる。 1831年、ウィーンで演奏会を開催するものの、ウィーンに失望し、やっとパリ経由ロンドン行きのヴィザを取得してパリに向かうことになる。 そして9月にパリに到着する。 その途上、シュトゥットガルトでワルシャワ革命が制圧された知らせを受け取り、大いに絶望する。 この年に練習曲「革命」(作品10-12)が書かれ、そのほか歌曲がまとまって作曲されている。 パリに着いたショパンは、リストと知り合いになり、メンデルスゾーンと再会した。 パリに到着したショパンは、当時パリで評判のヴィルトゥオーソで、ピアノ教育者のカルクブレンナーの指導を望んだ。 しかし、エルスネルは、それがショパンの個性を損ねることになると判断して指導を受けることに反対する。 カルクブレンナーは、ギド・マンというピアノ教育機器を用いた指導法を行ったことでも知られる。 パリで出会ったもうひとりの重要な音楽家が、チェロ奏者のフランコムである。 このフランコムとの出会いから、「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」が1831年に作曲されている。 ショパンはワルシャワを発つ前からフィールドのノクターンに接していたと思われ、1829年にホ短調(作品72-1)、1830年に嬰ハ短調(作品番号なし)が作曲されていた。 1832年に作曲された「ノクターン」(作品9)は、名曲として知られるが、フィールドの書法との結びつきを感じさせる。 この作品はプレイエル夫人に献呈された。 ショパンがパリで知った重要な人物に、ピアノ製造業を営むプレイエルがいた。 ショパンが「香水のような香りがする」として絶賛したそのピアノは、ショパンの音楽の霊感の源泉となった。 当時のパリにはポーランドからの亡命者が数多く滞在していた。 ポーランドの革命を率いたチャルトリスキや詩人のミツキェヴィッチらも滞在していた。 そのなかでひときわ精彩を放っていたのがポトツカ伯爵夫人で、音楽や芸術の教養あふれる彼女のサロンには数多くの文化人が集った。 彼女はショパンがもっとも信頼を寄せた女性で、ショパンの死の床でショパンの求めに応じてアリアを歌った。 パリでのショパンの人生を一変させたのが、ロトシルド ロスチャイルド)男爵の知遇を得たことであった。 1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、大富豪で知られる同男爵のサロンを訪れる。 これがショパンの社交界デビューとなった。 男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノの指導を依頼する。 その後、貴族や資産家の人々がぞくぞくピアノ指導を求めるようになり、ショパンのパリでの生計は一気に好転する。 シャルロットは音楽の才能豊かな女性で、ショパンは彼女に「バラード第4番」やワルツを献呈している。 パリに住むショパンにとって大きな気がかりは家族のことであった。 彼が両親と再会するのは1835年8月、カールスバートにおいてである。 ここはボヘミアの温泉保養地で、ショパンはここで3週間を両親と共に過ごした。 帰路、ドレスデンに滞在していたヴォジニスキ家を訪問した。 フェリックス・ヴォジニスキとは彼は寄宿舎学校時代以来の友人であった。 この滞在先でショパンはフェリックスの妹のマリアと会い、美しく成長したマリアに彼は深く心をとらわれる。 そして彼女との別れ際に「ワルツ」を贈る。 これが有名な「別れのワルツ」(作品69-1)である。 10月にライプツィヒを訪れ、メンデルスゾーンと再会するほか、シューマン夫妻と会う。 シューマンは彼が編集する「音楽新報」で、ショパンの作品2を高く評価しており、「謝肉祭」にショパンを登場させるほか、後に「クライスレリアーナ」を彼に献呈している。 翌年7月、ヴォジニスキ家のマリアとマリーエンバートで再会する。 ここもボヘミアの温泉保養地である。 ショパンはパリのロシア大使館にヴィザの更新を行うことを潔しとせず、そのために、ロシア領となったポーランドに入国することは出来なくなっており、そのために国境近くのこうした町で再会することを余儀なくされたのである。 そして9月、ショパンはマリアに求婚する。 パリに戻ったショパンはマリー・ダグーのサロンでジョルジュ・サンドと会う。 1837年2月、ショパンはインフルエンザに罹り、健康状態が悪化する。 この出来事はヴォジニスキ家の両親の心象を悪くし、7月マリアから別離を告げる手紙を受け取り、ショパンが彼女に宛てた手紙が彼のもとに返送されてくる。 ショパンはその手紙の束をリボンで綴じて「私の悲しみ」と書き記して、終生手元に置いていた。 この年、「練習曲集」(作品25)や「ピアノソナタ第2番」が作曲された。 マリアとの別離もあり、ショパンはサンドとの交際を深めるようになる。 そして同年11月、ショパンはサンドとマヨルカ島に滞在する。 この滞在期間に「前奏曲集」の作曲を進める。 しかし、かねがね患っていた結核が悪化し、翌1839年2月フランスのマルセイユに戻り、サンドが別荘を持つノアンに落ち着く。 健康状態の悪化に見舞われたが、創作面では充実しており、「前奏曲集」のほかに、「即興曲第2番」「バラード第2番」「スケルツォ第3番」「ポロネーズ第4番」などの作品が完成を見ている。 このころから1846年まで、ショパンの生活と活動は、ノアンとパリのサロンを軸に行われることになり、ノアンには、ポリーヌ・ヴィアルドやドラクロワらも訪れた。 そのようななか、1842年友人のヤン・マトゥシニスキがショパンに見取られて亡くなる。 この死はショパンに強い衝撃を与えた。 1843年冬、ショパンの病状は悪化し始め、1844年初め再びインフルエンザに罹り、重態に陥る。 春になってやっと病状が回復するが、5月25日、父の死の知らせを受け取り、深い絶望に陥る。 サンドはショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためる。 そして7月、姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れる。 ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことであった。 しかし、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中にショパンも少しずつ巻き込まれていき、とくに娘のソランジュと母サンドとの対立の構図のなかでショパンは居場所を失っていく。 その渦中の1846年に傑作「舟歌」「幻想ポロネーズ」「チェロソナタ」などの作品が書かれる。 そして1847年、ソランジュの結婚に際して、ショパンが彼女に理解を示したことから、サンドとの間に亀裂が生まれ、ついに7月28日、サンドはショパンに別離を告げる。 この別離はショパンの人生の大きな節目となった。 孤独な身となったショパンは4月、招きに応じてロンドンに渡り、ジェーン・スターリングの指導を行う。 イギリスではヴィクトリア女王の隣席の場で演奏会を催すなどの栄誉はあったが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させた。 イギリスでは、ロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラなどでも演奏会を催した。 11月にパリに戻ったショパンは病床に伏し、6月に大量の喀血をする。 姉ルドヴィカの再会を望むショパンの求めに応じて8月、ルドヴィカがパリに到着する。 10月17日、ポトツカ伯爵夫人、姉ルドヴィカに看取られて亡くなる。 葬儀は10月30日、聖マドレーヌ教会で行われた。 ピアノ音楽史におけるショパン ショパンのピアノ作品はきわめて個性的であるが、同時に19世紀ピアノ音楽のさまざまな音楽傾向と結びつきを持っている。 ワルシャワ時代にショパンが師のジヴニーのもとでモーツァルトやフンメルの作品を学び、ポーランド人作曲家の作品としてマリア・シマノフスカやユゼフ・エルスネル、ヴァイオリニストでシューマンの尊敬を得ていたカロル・クルピニスキらの作品に加えて、オギニスキなどの作曲家の作品に接していた。 ワルシャワ時代にショパンがポーランド人の作曲家の作品に広く接していたのは間違いない。 オギニスキのポロネーズ「さらば祖国」は、ショパンのポロネーズの共通の語法である。 また、エルネルの作品はロシア支配に対するナショナリズムを反映している。 ショパンの作風の基盤を形成した作曲家として注目されるのが、ネポムク・フンメルである。 晩年のモーツァルトに師事し、その後ハイドンやサリエリに学んだこの作曲家の語法は、間違いなくショパンの作風の源流の一つである。 フンメルは緩徐楽章における豊かな装飾表現をモーツァルトから受け継いだ。 旋律を、きらびやかなパッセージによって華麗に変奏する表現は、ショパンに受け継がれている。 1816年頃に作曲されたフンメルの「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品85)は、その後のショパンの創作を予感させる。 ショパンが「練習曲」(作品10)を作曲したときにすべての長短調を網羅する発想を抱いたと思われ、その思想はその後「前奏曲集」で結実する。 すべての長短調を用いるという思想は、フンメルも試みている。 ショパンの上記の練習曲集の作曲後の1833年に刊行された「24の練習曲」(作品125)はすべての長短調を用いた練習曲集である。 ショパンがワルシャワ時代に影響を受けた作曲家にアイルランド出身のジョン・フィールドもいる。 ペテルブルクで活躍したフィールドの創始したノクターンはワルシャワでも広まっていたことは確かで、ショパンの初期のノクターンははっきりとフィールドからの影響を示している。 影響が明確なのは作品9の3曲で、その後のノクターンではショパンの独自の作風を発揮している。 ショパンがフィールドから得た影響はノクターンだけではない。 フィールドは全部で7曲のピアノ協奏曲を作曲したが、オーケストラ伴奏で演奏する協奏曲のほかに、彼はピアノを含む室内楽版やピアノ独奏版も編曲している。 フィールドのノクターンの何曲からはピアノ協奏曲の緩徐楽章の編曲である。 ピアノ協奏曲を、ピアノを含む室内楽版で演奏する習慣は、モーツァルトの時代から行われていたが、フィールドの書法は19世紀における創作の一つの模範となった。 これらの編曲を前提としているために、ピアノ協奏曲のオーケストラは、ピアノ独奏の部分では非常に薄い書法が用いられている。 ショパンもこの書法を受け継いでいる。 また、ショパンの2曲のピアノ協奏曲も、ピアノを含む室内楽版でも演奏されていた。 ショパンの「コンセール・アレグロ」(作品46)はピアノ独奏曲として出版されたが、本来はピアノ協奏曲の第1楽章で、ピアノ協奏曲のピアノ独奏版とも解することが出来る。 ショパンは、同時代のシューマンやメンデルスゾーン、リストとは異なった形で19世紀の歴史主義を受け止めている。 メンデルスゾーンが「前奏曲とフーガ」を作曲し、シューマンやリストがペダルフリューゲルやオルガン用の作品でバッハの書法を受容した。 それに対して、ショパンは、すべての長短調を用いた「前奏曲集」を作曲することで、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の精神を19世紀音楽にもたらしている。 ショパンは、ワルシャワ音楽院時代に作曲の科目として対位法やフーガを学んでおり、その痕跡は「ピアノソナタ第1番」に示されている。 彼が自身の創作にこの対位法を生かしたのは、1840年代に入ってからである。 とくに「マヅルカ」(作品56-3)は、複雑な対位法の書法を用いて書かれており、19世紀の歴史主義を反映している。 ショパンは3曲のピアノソナタを作曲している。 シューマンはショパンがピアノソナタ第2番を作曲したときに、批評の筆を執っている。 その作品批評は皮肉を込めた肯定的なものではないが、ピアノソナタをこの時代にあえて作曲したことに驚きを隠さない。 ソナタとソナタ形式は、作曲の教養と学識の象徴となり、作曲家が創造性を発揮する場ではなくなっていったなかで、ショパンのとくに第2番と第3番はピアノソナタの歴史の中で画期的な価値を有している。 このソナタ形式の原理は、3曲のピアノソナタやチェロソナタだけではなく、スケルツォやバラードの創作の土台ともなっている。 これらは一般に3部形式として論じられる場合が多いが、むしろソナタ形式が基礎となっていると考えられる。

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ショパン スケルツォ解説

ショパン

ここでは、ショパンのピアノ曲をほとんど知らない、または全然知らない、 興味はあるけれど、初めに何を聴いたらよいか分からない、何かきっかけが ほしい、という方のために、入門用のお薦めCDを紹介します。 ショパン弾きとして世界的に名高いアシュケナージが、ショパンのタイトル付きの名曲を弾いています。 きれいな音で誰にでも分かりやすく丁寧に弾いてくれます。 ショパンの入門編の名曲集のファースト・チョイスとして最適です。 1985年のショパンコンクールで文句なしの優勝を勝ち取った世紀の天才ブーニンが、ショパンの名曲を弾いてくれます。 完璧なテクニックと想像力溢れる個性豊かな彼のショパン演奏には、多くの聴き手を惹きつけて放さない魅力があります。 ショパンはどんな作曲家だったのか? 作曲家ショパンの名前は誰でも聞いたことがあると思いますが、実際どんな人だったのか、どんな曲を 書いたのか、という質問に答えられる人は案外少ないのではないかと思います。 学校の音楽の授業では「ピアノの詩人」と教わったけど、「ピアノの魔術師・リスト」とどこがどう違うのか、 どこがどう「詩人」なのか?ショパンは一言で言えばどんな作曲家なのか?そんな皆様の疑問に答えるべくこのコーナーを設けました。 フレデリック・フランソワ・ショパン 1810〜1849 は、 ポーランド生まれの、 ロマン派時代を代表する 作曲家の1人で、 39年の短い生涯のほとんどを ピアノ曲の作曲に捧げ、 ピアノの詩人と呼ばれています。 これがショパンの音楽の根本です。 それではこれらのキーワードについて順を追って説明していきます。 ちょっと欲張ってやや高度な内容も盛り込みましたが、これさえ知っていれば、みなさんは 立派は「ショパン通」です。 しかし、ショパンの場合、その 全作品のほとんどがピアノ曲なのです。 これほど、ピアノという楽器に 終生こだわり、ピアノという楽器の魅力、可能性を極限まで追究した作曲家は、彼以外に 誰もいないのです。 子供の頃のショパンは、ピアノの音を聴いただけで涙を流してしまう少年だったそうです。 ピアノという楽器はショパンにとって他の楽器とは違う特別な存在であったわけです。 僕はピアノというのはそもそもそれ自体悲しい響きを持つ楽器だと個人的には考えていますが、 ショパンはピアノという楽器の音色にまず惹かれたのだそうです。 確かにピアノの鍵盤は一度押さえるとあとはダンパーペダルを駆使しても、減衰するだけで 二度と同じ音量、音色には戻らず儚くも消えていきますし、 やや乱暴な例えではありますが、日本でいうところの「無常」という概念にも通じるものがあると個人的には考えています。 そのようなピアノの純粋で切ない音色はそれ自体が人の涙を誘う極めて魅力的なものです。 現代ピアノの起源は、バロック時代に弦をひっかくスタイルの鍵盤楽器チェンバロにさかのぼりますが、 チェンバロは弦をひっかくことにより音を発生させるというメカニズムの都合上、 音量のダイナミクスを生むことが不可能な構造になっています。 しかしそのチェンバロから派生してハンマーで弦を打ち、その強度によってピアノからフォルテまで 幅広いダイナミクスをつけることができる表現力豊かな鍵盤楽器として、「ピアノフォルテ」が生まれ、 それが徐々に「ピアノ」という呼称で呼ばれ、発展してきたという経緯があります。 ショパンの生まれ育った時代はその「ピアノ」の完成の途上にあり、 ショパンの時代に88鍵の現在のピアノの原型がほぼ完成しました。 ショパンはその当時の最新ピアノの持つ極めて多彩で豊かな表現力に取りつかれ、 多くの人の胸を打つ感動的な作品を数多く生み出しました。 ピアノと言えばショパンというのは反論する方も多いかと思いますが、 そのように考えるピアノ好きの方も多くいることは確かな事実です。 そしてショパンと言えばピアノ、という言葉に異論を唱える人は皆無と思います。 ショパンにとってピアノというのは特別な思い入れのある楽器で、 終生、ピアノにこだわり続け、人一倍敏感な感受性と涙もろい性格とが混然一体となって、 ピアノにおいて数々の感動的な名曲を生み出してきたわけです。 同時代の作曲家の作品と比べると規模は小さめですが、 哀愁漂う抒情的で聴く人の涙を誘う優れた珠玉のピアノ小品を数多く生み出してきたため、 まるでピアノでロマンティックな詩を語るような作風から「ピアノの詩人」と呼ばれているわけです。 中世ルネッサンス期を経て、宗教色の強い教会音楽を中心と するバロック時代の音楽は、やがてより秩序だった構成、形式を重んじる古典派音楽へと移り変わり、 交響曲、ソナタ形式等の秩序が生まれ、より均整のとれた音楽へと発展していきます。 18世紀終わりには フランス革命等により全欧で自由と平等の思想が燃え上がり、その溢れ出る情熱が芸術全般にも波及し、 クラシック音楽にも大きな影響を及ぼしました。 秩序を重んじる均整の取れた古典派音楽は、やがてロマンと情熱を帯び始め、 文学や絵画、彫刻などの芸術と融合し、人間の内にある思いや情熱を表現するための手段に変わっていきました。 古典派後期に活躍したベートーヴェンは、古典派音楽に端を発しながらも、「田園」交響曲、「月光」ソナタなどで、 その具体的な情景を音で描写したり、具体的な標題を付けるなど、明らかにロマン派音楽を先取りした優れた作品を残しており、 ロマン派への重要な橋渡しの役割を果たしました。 ショパンは、そのようなロマン派初期に生まれた作曲家です。 ショパンは標題を付けることを嫌っていて、多くのタイトルは後の出版社が販売促進を意識して付けたものばかりで、 作品の内容は抽象的ですが、その作品の内容は紛れもないロマン派のもので、 こうした時代の影響を強く受けていると考えられます。 ロマンティックで哀愁に満ちた美しい旋律と多彩なハーモニーは人の心を掴んで離さない魅力がありますし、 時折見せる暗く激しい情熱もショパンの音楽の大きな魅力です。 もしショパンが古典派時代に生まれていたら、教育上そのような制約を受けて、 ショパンの才能が自由に羽ばたく土壌には恵まれず、このような魅力は半減していたに違いないと思います。 ショパンがロマン派時代に生まれたことも、ショパンのピアノ音楽を語る上で大きなポイントになるのが分かると思います。 ショパンがこの時代に生まれたのも、1つの幸運だったと思います。 バロック時代:J. ポーランドは、独特の3拍子のリズムを持つ マズルカ、ポロネーズを初めとした民族舞曲の宝庫 でした。 彼はそうした土着の音楽が幼い頃から自然に耳に入ってくる環境で育ちました。 ポーランドは軍事的には弱小国で主にロシアの支配下にあり、 国土はロシア、プロシア、オーストリアによって三分割支配されていました。 ポーランド当局・国民は解放を切望し、小さな反乱を繰り返しながらも常に列強に虐げられてきたという歴史があります。 ショパンが20歳になる頃にも、ポーランド解放を切望する風潮が一気に高まりを見せ、 ワルシャワの革命軍がロシア軍への反乱を企て、一触即発の危機にありました。 ショパンは祖国ポーランドを愛し、一時期は革命軍にも加わりたいとまで思っていたようですが、 病弱で体が弱かったショパンはそれを断念し、危機的状況のポーランドから出国することを周囲から奨められるようになります。 当時は一時的な出国と考えていたのかもしれませんが、ショパン自身はこの時、「一度ここを出ると、二度とここには 帰ってこられないような予感がする」と漠然と思ったそうです。 そしてショパンは目的地もはっきりしないままポーランドを後にしましたが、最終的にはフランスのパリに定住し、 主にここで後半生を送ることになります。 ショパンは祖国ポーランドを愛しており、パトリオットという代名詞はポーランド初代首相パデレフスキよりも、ショパンにこそ相応しいと 思えるほどで、パリに移り住んだ後も、片時も祖国ポーランドのことを忘れることはなく、 祖国ポーランドを思う気持ちが、意識的にせよ無意識的にせよ、彼の作品に反映されています。 それが顕著なのがマズルカとポロネーズです。 これらはともに3拍子系の祖国ポーランドの民族舞曲ですが、 マズルカが農民に伝わる素朴な民族舞曲であるのに対して、ポロネーズは貴族に伝わる堂々としたリズムを特徴とする舞曲です。 しかしマズルカ、ポロネーズだけでなく、ショパンの様々な作品にポーランドの民族舞曲の要素が随所に散りばめられており、 ショパンを演奏する際には、こうしたポーランドの民族精神への理解が必要とされます。 特にマズルカはポーランドで育った人とそうでない人とで演奏に顕著な違いが出るとされ、 ポーランド出身のルービンシュタインやステファンスカなどが弾くマズルカが「お国もの」のブランドとして 他のピアニストの演奏とは区別して崇められるのは、こうした理由によります。 また、ポーランドに限らずスラブ系民族の人は、独特の感受性を持ち、情にもろいと言われています。 日本語で「悲しみ」という訳語に最も近いと言われるポーランド語のジャル(zal)という単語には、 悲しみの他に、メランコリー、哀愁、恍惚、憧れといった様々なニュアンスが含まれており、純粋に一対一に 対応する日本語がないと言われています。 悲しみの中に、憂愁、メランコリーといった情緒に浸りながら そこに一抹の甘美な感傷に酔って恍惚と物思いにふけっていられるという独特の感性のあり方は、彼の音楽の根底に宿る 大きな特徴と言えるでしょう。 いわば「もののあわれ」を肌で感じるスラブ人独特の感性が、彼の作品の中に 色濃く反映されているわけです。 シューベルト31歳、モーツァルト35歳、 メンデルスゾーン38歳、シューマン46歳等々。 ショパンは生来病弱な体質で、17歳の時に2つ年下の最愛の妹エミリアを結核で亡くしてから、自分の 恵まれない健康を意識し始め、将来に対し漠然とした絶望感を持つようになりました。 彼の人生そのものが不幸を絵に描いたような生涯であったことは誰もが知るところです。 初恋の人、グラドコフスカへの実らなかった片想い、生涯で彼が最も愛した女性と思われるマリア・ヴォジンスカ との間で交わされた婚約の破棄、自由奔放な男装の女流作家ジョルジュ・サンドとの謎に満ちたスキャンダラスな 恋、破局、等々、彼は長期的で安定した幸せを手に入れることの出来ない運命にあったと言えます。 しかし、そのような不幸な人生であったからこそ、これだけインスピレーションに富んだ作品を残せた という見方もできます。 彼が幸せに彩られたバラ色の人生を歩んだとしたら、これだけ美しく涙の味のする 素晴らしい作品が残せたでしょうか。 天才作曲家は、後の世に珠玉の名曲の数々を生み出すことを命に受け、 己の人生の幸せを犠牲にするという運命を背負ってこの世に生まれ出るのだ、と考えると、 ショパンが残してくれた数々の名曲が万人に愛されていることこそが、彼の生きた証であり、ひいては 彼の本当の幸せだったのではないか、とも思えてくるのです。 ここまで読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。 これでショパンという作曲家について、だいぶ分かったような気がしませんか? 一口に天才作曲家といっても、他の作曲家とかなり違っていることがお分かりになったでしょうか? これさえ覚えれば、みなさんもショパン通です。 あとはどんどん曲を聴きまくりましょう。 ショパンの曲を聴いたり弾いたりする中で自然に知識も増えていきます。

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